新しい年が始まったばかりだというのに、城戸邸内は 異様に暗く、そして、異様に寒かった。
瞬が 氷河の部屋に彼を訪ねたのは、松の内も明けていない、まだ十分に“新年”といえる頃。
昨夜、紫龍と星矢に、
「機械が故障しているわけでもないのに、邸内の暖房が 全く効かなくなっているんだ。メイドたちが この頃 冷えて困ると嘆いている」
「小宇宙を燃やしてるわけでもないのに、氷河の周囲が寒くてさー」
と 知らされたからだった。
瞬自身は、自らの小宇宙で 自分の周囲を常に適温にしておけるので、その異常事態に気付いていなかったのだが、氷河が小宇宙を燃やしているわけでもないのに 彼の周囲が寒く、城戸邸の気温が異様に下がっているという状況は尋常のことではない。

「氷河は、反小宇宙、もしくは負の小宇宙という、アテナの聖闘士が持つべきではない力に支配されつつあるのではないか」
と深刻な顔で 紫龍に言われ、瞬の心は平静でいられなくなったのである。
「氷河の奴、今年の目標を“マザコン卒業”から“恋人を作る”に変えたらしいんだけど、そのことに関係しているのかもな。“マザコン卒業”にしても“恋人を作る”にしても、氷河には超難題で 重荷だろ。小宇宙を燃やせないくらい悩んでたみたいだし、それがよくない方向に左右してるんじゃないか」

アテナの聖闘士が小宇宙を燃やせなくなるほど悩んでいるとは、ただごとではない。
瞬の心を 何より不安にしたのは、それほどの悩みを、氷河が自分に打ち明けてくれなかった事実だった。
氷河が 特定の仲間にだけ 悩みを打ち明けないことがあるとしたら、それは その仲間のために決まっている。
もしかしたら氷河は、アンドロメダ座の聖闘士なら解決できる問題を抱えていて、だからこそ 逆に、アンドロメダ座の聖闘士に迷惑をかけまいとして、沈黙しているのではないか――。
その可能性を案じて、瞬は 氷河の部屋に向かったのである。


氷河の部屋は暗かった。
時刻は、午前9時。
天気は快晴。
一目で 昨夜から消されていないことがわかる照明が煌々と輝いているというのに、氷河の部屋は 暗くて寒かった。
ベッドに全く乱れがないところを見ると、昨夜はベッドにも入らなかったのだろう。
氷河は、その脇にある肘掛け椅子に身体を投げ出すように腰掛けていた。
小宇宙はもちろん、覇気も――覇気どころか、生気も感じられない。
にもかかわらず、室内の この暗さ、冷たさ。
紫龍が言っていた反小宇宙、負の小宇宙というのも、あながち 想像の産物ではないかもしれないと、瞬は不安に かられてしまったのである。

「氷河……?」
恐る恐る、仲間の名を呼んでみる。
氷河は眠ってはいないようだった。
うんとも すんとも、白鳥座の聖闘士からの答えは返ってこなかったが、覚醒していることだけは確認できる目と視線が、瞬の上に移動してくる。
仲間の姿を認めた氷河の中では、何かが活動を始めたようだった。
それが何なのかは わからない。
が、それが明るく楽しいものでないことだけは、瞬にも感じ取ることができた。

「あ……星矢が――氷河は、今年の目標を“恋人を作る”に変えたみたいだって言ってたんだけど、それは本当?」
朝一番、開口一番で、『暗いね!』と明るく挨拶するわけにもいかず、瞬は 遠慮がちに、昨夜 星矢から知らされた話題を持ち出した。
氷河から、比較的 落ち着いた声音での返事が返ってくる。
「目標を変えたわけじゃない。“船を更に深く沈める”、“遺体を引き揚げる”以外の、マザコン卒業の証明の第三の道として、それでもいいと 沙織さんに言われたんだ」
「第三の道……」

そんなものを沙織に示されていたなら、なぜ 氷河は そのことを自分に知らせてくれなかったのか。
第三の道を採るつもりがなかったからなのか、あるいは その道を採るしかないと考えていたから、逆に言いにくかったのか。
そのいずれかであったとしても、それ以外の事情があるにしても、とにかく 氷河と その周囲を暗く冷たくしているのは、沙織が制定した“今年の目標”制度であるらしい。
生きている兄絡みの目標を立てたアンドロメダ座の聖闘士とは異なり、氷河の それは亡くなった人絡みの――それゆえに永遠に慕わしい人絡みの目標なのだ。
氷河の心中の苦しさを思い、瞬は短く吐息した。

「氷河はマザコンなんかじゃないでしょう。氷河が お母さんを大好きで大切に思っていることは いけないことじゃないよ」
「……」
「それは氷河のマーマが 氷河を深く愛してくれていたってことで、氷河が氷河のマーマに 深く愛されていたってことで、それは ただ素敵で 幸せなことなのに……」
「……」
氷河が無言で瞬を見詰めてくる。
その青い瞳に少し熱が戻ってきたような気がして、瞬は そのことに力づけられた。

「マーマのことを忘れたり、考えていない氷河なんて、氷河じゃない。僕は、マーマを好きな氷河が大好きだよ」
「瞬……」
氷河が名を呼んでくれた。
瞬の胸が少し 弾んでくる。
「ね、氷河。つらかったら、沙織さんに、目標の変更をお願いしてみたら? 氷河はマザコンなんかじゃないんだから、マザコン卒業するなんて、もともと無理な話なんだし、そのために恋人を作るなんて理屈、絶対に おかしいよ」
「そうだな。俺も そう思う。だが、俺は目標を変えたくないんだ」
「え……?」

名を呼んでくれただけでなく、会話が成立し始めた。
元気溌剌には 程遠いが、氷河は着実に その心身に力を取り戻しつつある。
それは喜ばしいことで、嬉しいことでもあるはずなのに、瞬は なぜか、短く名を呼んでもらえた時ほどには 氷河の変化を喜ぶことができなかった。
『目標を変えたくない』
それは、氷河が、第三の道での証明を成し遂げたいと思っているということなのだろうか。
どうやら――そのようだった。

「俺がマザコンかどうかとか、もし そうだったとして 卒業する必要があるのかとか、そんなことはどうでもいいんだ」
「どうでもいい?」
「ああ。それは どうでもいいんだ。その件に関しては、俺はどうせ変われない。そうではなく――」
「そうではなく……?」
「どうも、俺には 恋の才能がないようなんだ」
「恋の才能がない……?」

『目標を変えたくない』という氷河の言葉が思いがけなくて、いつものように頭が働かない。
芸もなく 氷河に鸚鵡返しを繰り返している自分を、瞬は訝った。
「俺は口下手だし、明るくもないし、人を楽しませられるような 気の利いた会話もできない。恋の才能がないんだ」
「恋の才能がない?」
これ以上 鸚鵡の真似ばかりしていると、氷河を力づけるどころか、それこそ鸚鵡レベルの人間だと思われてしまう。
瞬は必死に 自分に――自分の脳と心に 活を入れた。

「才能なんて、そんな……。そうだ、スクリャービンが言ってるよ。『音楽で自分の言葉を表現したいという強い思いがある時に、才能についてとやかくいっても仕方がない』って。スクリャービンって、確か ロシアの作曲家だよね。恋の才能なんて、その人を好きだっていう心ほどには 意味も力もないものだよ……!」
おそらく、スクリャービンの言葉は事実だろう。
瞬自身、そうなのだと信じたかった。
だが、もちろん、人生には 心だけでは どうにもならないこともある。
それは 瞬にもわかっていたのだが、今は 瞬は そう言うしかなかった。
今、氷河に――小宇宙を燃やすこともできないほど 打ちひしがれている氷河に――『才能がないなら諦めろ』と言うことはできない。
たとえ どんなに そう言ってしまいたくても。

「恋は――恋は実ったら、それがいちばんだけど、誰かに恋ができたっていうことは、それだけで素晴らしいことでしょう? 好きな人に 同じように愛してもらって、その恋を実らせて――それが氷河の恋の目的なの? 実らない恋は、氷河には意味も価値もないものなの?」
きっと違う。
氷河にとって 恋はそういうものではない。
氷河は、自分が愛し 自分を愛してくれた人を、もう愛し返してもらうことはできないとわかっていても、愛し続けることのできる人間。
もちろん 恋は実った方がいいに決まっている。
だが、氷河は、そんなことには――そのことだけには 価値を置かない。
瞬は、氷河を そういう人間だと信じていたし、事実も その通りだった。

「たとえ俺の恋が実らなくても――俺は、俺の恋した人に 幸せでいてほしい。もし、俺が その幸せに関与できたら嬉しいと思うだけだ」
瞬が思っていた通りの答えが返ってくる。
瞬は、ひどく切ない気持ちで微笑した。
「氷河に好きになってもらえた人は、幸せだね」
「瞬……」
いったい 氷河に好きになってもらうという幸運に恵まれた人は、誰なのだろう。
今は もう暗さも冷たさも消えた氷河の青い瞳。
この燃える青い宝石に見詰めてもらえる人は、いったい誰なのか。
氷河の瞳の中にいる自分の姿を見て、瞬は ひどく胸が痛んだ。

「あ……じゃあ、僕、これで」
これ以上、ここにいたくない。
氷河の反小宇宙は もう消えた。
瞬は、氷河の部屋を出るために、氷河の瞳から視線を逸らしたのである。
氷河が、瞬のその手を掴んで引きとめる。

「瞬。俺を心配して、来てくれたのか?」
そのはずだった。
そのはずだったのだが。
「星矢や紫龍が――氷河が何か悩んでるみたいだって 言ってたから……」
そのはずだったのに――励まし 力づけようとして やってきた人間の方が落ち込んでいたのでは、笑い話にもならない。

「そうか。すまなかったな。ありがとう。瞬」
「ううん。僕、結局 何も――」
何もできなかった。
結局 何もできなかったアンドロメダ座の聖闘士に、それでも 氷河は感謝してくれているらしい。
「ありがとう、瞬」
氷河は、その言葉を繰り返した。
「瞬、好きだ」
「僕も氷河が大好きだよ。だから、あの……頑張って」

その励ましが適切なものなのかどうかを 冷静に考えられるほど、今は 心に余裕がない。
それ以上は 氷河の顔を見ずに、瞬は 氷河の部屋のドアに向かった。






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