氷河が宮の外に出ると、天蠍宮の気温は確実に3度は上昇した。
無意識のうちに、氷河は、怒りの炎ならぬ 怒りの氷を燃やしていたらしい。
「あれでいいのか、本当に。君と氷河は――」
氷河の姿を呑み込んだ天蠍宮の入り口に視線を走らせ、肩をすくめて 瞬に尋ねる。
瞬からは、
「僕は、氷河が好きです」
全く ためらう気配のない、春の微風のような答えが返ってきた。

「あっさり言ってくれる」
二人は やはり そういう仲であるらしい。
そして、そのことを隠すつもりもないようだった。
キリスト教に支配されていた中世ならともかく現代の、しかもギリシャの女神であるアテナが支配する聖域で、その件について あれこれ言うつもりはない。
冬が春に焦がれ、春が そんな冬を包むのは 自然なことなのだ。
だが。

「どこがいいんだ、氷河の」
ミロが そう尋ねたのは、この澄んだ瞳の持ち主は、アテナに従う青銅聖闘士たちの中でも――否、人間として稀有な存在だと思うから――だった。
アテナに従う青銅聖闘士たちの中では 格段に親しみやすく、当たりも やわらかい。
際立った容姿がなければ、最も浮世離れしておらず、没個性的といってしまってもいいほど普通の人間。
それぞれに個性的な青銅聖闘士たちの調停役。
突出したところがなく、調和と強調を最大の美徳としているような、穏やかな印象の勝つ少年。
それは 自負心の強いアテナの聖闘士には珍しい特質――異質ですらある特質だった。

「氷河は清廉潔白で、強いので」
「強い?」
瞬が氷河に惹かれた理由が それであるはずがない。
ミロは瞬の言葉を信じなかった。
強さというのなら、もっと強い男たちが この聖域には――瞬の周囲には、いくらでもいる。
だが 瞬は、決して冗談で そんなことを言ったのではなかったようだった。

「自分を慈しみ育ててくれた お母さん、自分に聖闘士になる道を示してくれた師。氷河は そんな大切な人たちを失った――自分のせいで亡くした。普通の人なら、運命を憎みますよ。自分を憎み、自分の境遇を憎み――でも、氷河はそれをしないんです」
「ああ、戦闘力のことではないわけだ。しかし、その強さは、要するに鈍いということではないのか? 氷河は 運命を憎むこともできないほど鈍いんだ」
“好き”という感情が どれほど人間の判断力を狂わせるものであっても、それが まさか 氷河を“繊細”と思わせるほどの力を持つものであるはずがない。
もし瞬が そこまで狂っているのなら、瞬を正気に戻すのは、人生の先達の務め。
そんなことを考えながら、ミロは瞬の答えを待った。

とはいえ。
ミロは決して、氷河を貶めようとして そんなことを言ったわけではなかった。
ミロは、氷河を嫌いではなかった――むしろ、好意を抱いていた。
氷河は、彼の同輩にして友でもあったカミュの弟子である。
カミュの代わりに見守っていてやりたいとも思う。
ミロは要するに、氷河を心配していたのだ。
アンドロメダ座の聖闘士に愛されるだけの価値があるとは思えない氷河が、いずれ その事実を瞬に気付かれ、恋人に見捨てられることがあるのではないか、この綺麗な二人の仲が破綻する時がくるのではないか――と。

その時、恋人に対して思い描いていた夢が美しければ美しいほど、瞬の幻滅の度合いは はなはだしいものになるだろう。
恋人同士でなくなった時、二人が憎み合うことがないように、せめて 仲間同士でいられるように話防戦を張っておいてやるのは 大人の役目。
二人が決定的に決裂し、共に戦うことができなくなったら、それは聖域の戦力を殺ぐことになるのだから、と。

「――」
瞬から、答えは返ってこなかった。
ふいに その微笑を消し去り、沈黙して、瞬が――アンドロメダ座の青銅聖闘士が――蠍座の黄金聖闘士を見詰める。
瞬に、まるで 氷河の小宇宙のように冷たい感触を感じて――そんなことがあるはずがないのに――ミロは 微かに眉をひそめた。

「アンドロメダ?」
「瞬で結構ですよ」
やわらかな、だが どこか慇懃で硬い口調で そう言ってから、瞬は その周囲を再び春の空気で包んだ。
声も言葉も、すぐに いつもの瞬のそれに戻る。
「氷河は誰からも――お母さんからも カミュからも深く愛されたから……。彼等に心から愛された思い出が、氷河を まっすぐな心を持つ人間にしておくのだと思います。自分が誰かに本当に愛されていたと信じられることは、その記憶は、人の心を豊かにするものでしょう? 誰かに本当に愛された思い出は、その人の心が歪むことを許さないんです」
綺麗な目をした青銅聖闘士が、綺麗な理屈を、綺麗な言葉で紡いでみせる。
ミロは唇の端を歪めた。

「幸運で幸福な男と言えば聞こえがいいが、おめでたい男ということもできる。そんな おめでたい男が好きなのか、君は」
氷河は 己れの師の命を奪った弟子。
弟子が自分を超えることを 師は喜ぶものだろうが――少なくとも カミュはそうだったと、ミロは確信できていたが、弟子が師を超えることを、弟子自身は喜ぶものだろうか。
まして、その乗り超え方が、師の命を奪うことで為される――為されたとなれば。
普通なら、その弟子は 苦渋の思いに支配されるだろう。
その運命を憎まないというのなら、氷河は 相当に鈍いか、あるいは 冷酷なのだ。
だが、氷河が冷酷な男であるはずがない。
初めて出会った時、氷河は、瞬が命をかけて友を甦らせてくれたことに、過剰にすぎるほど心を動かされていた。

瞬は、ミロが言葉にしなかった思いも察しているようだった。
察した上で、わざと ずれた答えを返してくる。
「カミュが亡くなった時には、僕も心配しました。でも、氷河の心はまっすぐなままだった。氷河は、誰も、何も、恨まなかった。自分に師を殺させたカミュも、その運命も、自分自身も。氷河は強いんです」
カミュにも非があったと、さらりと言ってのけるアンドロメダ座の青銅聖闘士。
この温かく やわらかな小宇宙や、汚れを知らぬ少女のような面差しに 騙され 油断してはならないと、ミロは自らを戒めた。
瞬は聡い子だと思う。
ただ 瞬の聡明や賢明は、その優しさほど強いものではないので、瞬は その事実を人に感じ取らせることをしないのだ。
それでも ミロは、氷河が強いという瞬の意見には同意できなかったが。

初めて この天蠍宮に姿を現わした時、他でもない氷河自身が言っていたのだ。
自分の身体と魂は死にかけていたと。
氷河が死にかけていたのは、氷河自身の弱さゆえ。
瞬の力で、死にかけていた白鳥座の聖闘士は甦った。
瞬の力と アテナの加護があったから、氷河は今も生きているのだ。
氷河を強い男だと思うことは、ミロにはできなかった。

「氷河は物事を深く考えないから、他者や運命を恨まず、憎まないだけなのではないか? 氷河は 大物と言っていいほど、愚かで単純――大愚なんだ」
「大愚は大賢に通ず、大愚は大聖に通ずと言いますよ」
「氷河が大愚だということは わかっているんだな。君は悪趣味だ。氷河にとっては幸運なことに」
「僕にとっても、それは幸運なことでした」
“それ”とは、白鳥座の聖闘士が大愚であることなのか、アンドロメダ座の聖闘士が悪趣味なことなのか。
どちらなのだと、ミロが問おうとした時、氷河が宮の内に戻ってきた。
ミロが口にしかけていた質問を口にしなかったのは、それが氷河の前では訊きにくいことだったからではなく、氷河に遠慮したわけでもなく――瞬に その話を続ける気がなさそうだったから――だった。

「星矢と紫龍は処女宮で引っ掛かっているようだ。処女宮の周囲に奇怪な小宇宙が生じている」
愛想と抑揚のない声で、氷河が、自分が確かめてきたことを報告してくる。
蠍座の黄金聖闘士に対する時とは打って変わって、瞬は 自分の仲間に 心安げな表情を浮かべた。
「シャカのところで?」
「何か行儀の悪いことをして、説教でも食らっているんじゃないか」
「もう、星矢ったら……」
行儀の悪いことをしたのは星矢の方だと決めつけて、瞬は笑いながら顔をしかめた。
氷河が何も言わないところを見ると、彼も瞬と同じ考えでいるのだろう。
あるいは 氷河は、行儀の悪いのが星矢であっても紫龍であっても、それどころかシャカであっても、状況は変わらないのだからどうでもいい――と考えているのかもしれなかった。

「相手がシャカでは長くかかるぞ。星矢たちを待つのはやめて、俺たちだけでも先に行こう。沙織さん――アテナに星矢の遅参の弁解をしておいた方がいい。ここで 同じ話を繰り返す年寄りの相手をしていても、時間の無駄だ」
白鳥座の聖闘士は、天馬座の聖闘士と争うほど行儀が悪い上に、口も悪い。星矢とは違う方向に、口が悪い。
瞬が、
「僕は ミロの話を聞くのは好きだけどね」
と応じたのは、“同じ話を繰り返す年寄り”の立場を慮ってのことだったろう。
「でも、そうした方がいいみたい。じゃあ、ミロ。僕たちは これで失礼します」

瞬が、氷河の口の悪さと無愛想を補うように丁寧なお辞儀をして、蠍座の黄金聖闘士に 辞去の意を伝えてくる。
大人気なく 怒りの感情を表に出さないために、ミロは 意識して無関心を装い、右の手をひらひらと振って、二人を天蠍宮から送り出した。






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