女神アテナに選ばれた者以外の人間は誰も足を踏み入れることができない伝説の聖域の場所は、あっけないほど簡単に見付かった。
もしかしたら この世界には本当に神がいて、母を失いかけている不運な息子を哀れんでくれているのではないかと、つい 神の存在を信じてしまいそうになるほど。
(その神の名が、ヤハウェなのか、イエスなのか、アテナなのかは、当の氷河自身にも わからなかったが)
そうとでも考えなければ、氷河には その成り行きが信じられなかったのである。
身の内から湧いてくる不思議な力に導かれるように足を向けた場所に、ごく自然に 伝説の聖域はあったのだ。
どうやって そこに行き着いたのか、氷河は道を憶えていなかった。
アテナイから、半日ほど内陸に向かって歩いた――と思う。
それ以外、定かなことは何一つない。
とにかく、氷河の目の前に、聖域は 突如として現われたのだ。

乾いた大地と申し訳程度の木立ちの その向こう。
山肌の あちこちに幾つのも古代の神殿を抱いた山があった。
それらの神殿は 白い石の階段でつながり、山の頂にある ひときわ壮麗な神殿に至っている。
おそらく その神殿に“神”がいる――母から 死の運命を取り除くことのできる神がいる。
それは直感で、そして 確信だった。
人智を超えた力を持つ神のいる場所。
だが、たじろぎ 恐れている時間はない。

氷河は 意を決して、その山の麓に向かって歩き出した。
邪魔さえ入らなければ、山の頂の神殿まで2時間もあれば辿り着く。
山の麓まで、そして 山肌のあちこちにある神殿にも 人の姿はない。
少なくとも武器を持った軍兵の影はない。
十中八九、“邪魔”は最終目的地である神殿で入ることになるのだろうと考えて、氷河は聖域に その足を踏み入れた――踏み入れようとした――のである。
が。

氷河は奇妙な力に前進を阻まれた。
氷河のいる世界と 聖域の間には 壁があったのだ。
目に見えない壁――触れることのできない壁。
それは物質ではない空気の壁――抵抗を感じさせない空気の壁だった。
氷河は普通に歩いているつもりなのに、彼の身体は1ミリたりとも前に進んでいない。
そこだけ空間が捩じれているかのように――氷河の身体は前進するための動いているのに、実際には氷河の身体は同じ場所で足踏みをしているだけなのだ。
普通の人間が 伝説の聖域に入ることは、やはり容易なことではないらしい。
呼び寄せておきながら拒むとは――その姿だけを見せて触れることは拒むとは――たちの悪い商売女の嫌がらせかと、氷河は憤ったのである。

アレクサンドロス大王やヘラクレスとやらが何をした男なのかは よく知らなかったが、おそらく その男たちは無謀な冒険や戦いに挑み、勝利した者たちなのだろう。
氷河は、これまで そういう戦いを戦い、勝利してきた。
正気を失った目をして 剣を振りかざしてくるオスマン帝国の兵など、氷河の敵ではなかった。
自分の前に立ちはだかる者は すべて打ち倒してきた。
人間だけではない。
どんな苛酷な雪山も氷の海も制してきた。
そんな自分が なぜ、こんな温暖で平和そうな土地に入り込めないのか。
聖域は いかにも親しげな笑顔で、来訪者を迎え入れる様子を見せている。
にもかかわらず、聖域は、自らに近付くことを来訪者に許さない。
聖域が たたえている優しく穏やかに見える微笑は、実は傲慢な嘲笑であるらしい。
そう悟った途端、氷河の頭に血がのぼった。

こうしている間にも、母の命は少しずつ失われていく。
氷河は、目に見えない壁に渾身の拳を打ち込んだ。
しかし、触れることのできない壁は、崩れ消え去るどころか、氷河の拳を受けとめることさえしない。
空気の壁は、物理的な力では 崩すことができそうになかった。
ここまできて――目の前に聖域の姿が見えているのに、諦めることなどできるわけがない。
冷たい怒りで、氷河の身体が燃え上がる。
この聖域まで、氷河を導いてくれた あの不思議な力。
その力が、また自分の内に湧き起こってくるのが感じ取れる。
この不思議な力が、こちらの世界と聖域とを隔てる壁に作用する鍵なのだろうか――?
氷河は、その力を増幅させ、聖域に向かって腕を伸ばした。

案の定、その接触で 空気の壁に亀裂が走り、此方と彼方の境界は霧散する。
やはり そうだったらしい。
せっかく 消えてくれた壁に再生されてはたまらない。
空気の壁の消滅に歓喜して、氷河は後先を考えず、神殿を抱く山のある方に駆け出したのである。
それが、用心を欠いた軽挙だったらしい。
氷河が聖域に入り込んだ途端、聖域の内側から 途轍もなく強大な力の塊りが 向かって襲いかかってきた。
物ではなく、武器でもなく――物理的ではないエネルギーの塊り。
それは、氷河の肉体に強烈なダメージを与えた。
痛みはないのに――氷河の心身は、その圧倒的な力に耐えきれなかったのである。
強大な力の余波が消えた その場所に、可愛らしい妖精の姿があったような気がした。






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