冬の大三角の上方に、同じ明るさの二つの星が並んでいる。 それがカストルとポルックス。 双子座を形成する双子の頭部に当たる星である。 まさか、その星たちに悪影響を受けたわけでもないだろうが、瞬が突然、 「ブラコンって、嫌われるのかな……」 と言い出したのは、放射冷却のせいで日本各地に低温注意報が出された、2月の ある夜のことだった。 水瓶座の黄金聖闘士が作り出した凍気に侵された男をさえ甦らせることのできる瞬に、『凍えるから、(暖房のきいた)部屋に戻れ』と言うのも 間が抜けているので、ベランダに出ている瞬に、星矢は何も言わずにいた。 その瞬が、室内に戻ってくるなり、何の前触れもなく そんなことを言い出したのである。 思い詰めた瞳、全く覇気のない声で。 「星矢。星矢は、僕のこと、ブラコンだと思う?」 「……」 真顔で そんなことを訊かれても――と、本音を言えば 星矢は思ったのである。 だが、瞬は、その身辺に、笑ってごまかすことを許してくれそうにない空気をまとっていて、星矢は そうすることができなかった。 仕方がないので、とりあえず、微妙に論点をずらした意見を吐いてみる。 「ブラコンは、おまえじゃなく 一輝の方だろ。普通、いないぞ。自分の弟に似た女の子に 惚れるなんてオトコは。もしかしたら 人類史上初かもしれない。一輝のあれはビョーキだな、ビョーキ」 星矢は もちろん、冗談のつもりで、冗談口調で、そう言った。 が、残念ながら、瞬は それが冗談だということに気付かなかったらしい。 瞬は 真剣な目をして、星矢に反論してきた。 「それは……エスメラルダさんと僕は 本当は あんまり似てなかったんだと思うよ。兄さんは優しいから、つらい生い立ちのエスメラルダさんの力になってあげたいと思って、でも、兄さんは 自分が優しいことを人に誇示できない人だから、情けない弟に似てるから心配なんだって 理由をつけて、エスメラルダさんを守ってあげようとしたんだと思う。エスメラルダさんに失礼だよ。僕に似ていたなんていう、兄さんの言葉を鵜呑みにするのは」 失礼どころか、大抵の女子は『瞬に似ている』と言われたら喜ぶだろうし、喜ばないにしても、それを褒め言葉と受け取るだろう。 ――という本音は、瞬のために 言葉にすることはできない。 代わりに星矢は『マザコンよりは ましだろう』と言おうとし、その段になって初めて、いつのまにか氷河がラウンジから姿を消してしまっていることに気付いたのだった。 瞬が室内に戻るのと入れ違いに、氷河はラウンジを出ていってしまったらしい。 氷河のいないところで、『マザコンより まし』と言うのは陰口になってしまうので、星矢は、言おうとした台詞を言えなくなってしまった。 同時に、マザコンとの比較は ともかく、兄の初恋(?)を、そこまで好意的に見ることのできる瞬は、やはり ブラコンの気があるのかもしれないと考え直す。 それでも、星矢は、瞬のブラコンは 一輝のブラコンや氷河のマザコンに比べれば かなり軽度な方だろうと思っていたが。 「僕がブラコンじゃなかったとして、じゃあ、ブラコン以外に、僕が人に嫌われる要因って、どんなのがあると思う?」 実は 瞬自身も、自分はブラコンなどではなく、ごく普通に兄を敬愛している弟なのだという認識でいたのだろう。 瞬は、星矢への質問を変えてきた。 そして、その質問も、星矢には意想外のものだった。 「おまえが人に嫌われるって……なに言い出したんだ? 大抵の奴は、おまえを好きだろ。おまえは、優しくて、誰にでも親切。綺麗で可愛いし、キヨラカだし、強いし。好かれる要素しかないじゃん。まあ、ちょっと泣き虫だけど、それがないと、おまえは 欠点らしい欠点がなくなって、完璧すぎる人間になっちまうから、ちょっと泣き虫くらいで ちょうど いいんじゃないか」 瞬は、自分が誰かに嫌われたと誤解して、あるいは 嫌われることを懸念して、そんなことを言い出したのだ――と、星矢は察した。 だとしたら、『それは誤解だ』もしくは『そんな心配をする必要はない』と言って励ましてやるのが、瞬の仲間の務め。 現に 星矢は瞬を好きだったし、人に嫌われる要因は瞬にはないと思うから、星矢は瞬に そう言った。 そこに、瞬の もう一人の仲間であるところの 某龍座の聖闘士が、 「一概に そうとも言えんぞ」 と 口を挟んでくる。 “ちょっと泣き虫”以外に、瞬の欠点を思いつけなかった星矢は、紫龍のその言葉に、少なからず驚き、顔を しかめることになった。 「そうとも言えないって、どういうことだよ? そうとしか言えないだろ、フツー」 自分の感性と判断を 普通で一般的なものと決めつけることは危険な行為であるが、自分の感性と判断を普通で一般的なものだと信じている人間は、普通で一般的な存在だろう。 自分の感性と判断を普通で一般的なものと信じている星矢の前で、紫龍は、その表情で『異論を唱えることは、俺としても 極めて不本意だが』と前置きをしてから、改めて口を開いた。 「瞬に関する おまえの見解には、俺も完全に賛同するが、世の中には、そうではない人間もいるということだ。綺麗で可愛い人間は、人に妬まれるし、清らかな人間は、清らかではない人間に疎んじられる。優しい人間を、優しくない人間は信じられないものだ。強い人間、明るい人間も同様。幸せな人間も、不幸な人間には癪に障るものだろう。出る杭は打たれる。美点というものは、妬まれる原因にもなり得るんだ」 紫龍の“不本意な異論”を聞いた星矢は、まず、 「うえーっ」 と、盛大に“遺憾の念”を表明した。 その後、すみやかに非難を開始する。 「それって、いくら何でも ひねくれすぎてるだろ!」 「自信満々で そう言える おまえは、素直な人間だということだ」 紫龍が、微笑して 言う。 紫龍の その微笑にも言葉にも、星矢は悪意のようなものは感じなかった。 それでも 星矢は、今ひとつ褒められた気がしなかったのである。 が、『天馬座の聖闘士が“素直な人間”である』という評価の正否は、今は問題ではない。 何といっても、瞬が 自分を嫌っていると誤解している人間、あるいは 嫌われることを懸念している人間は 天馬座の聖闘士ではないのだ。 「おまえを嫌ったり 妬んだりするような奴は、相当の ひねくれ者だから、気にしない方がいいぜ」 瞬を力づけるために、星矢は きっぱりと断言した。 その断言に対して、瞬が、 「氷河は ひねくれたりなんかしてないよ!」 と反論してくる。 「へ !? 」 瞬が口にした その名に、星矢は声と言葉を失うくらい驚いたのである。 比喩ではなく 本当に、星矢は かなりの時間、絶句していた。 それは つまり、瞬が、自分を嫌っていると誤解している人間、あるいは 嫌われることを懸念している相手が氷河だということなのだろうか。 それは、いくら何でも あり得ない事態。 太陽が西から昇り、一輝が冷却技を繰り出し、紫龍が髪を五分刈りにし、氷河が裸で敵と戦うことより百倍もあり得ない事態。 星矢にとって、それは あまりにも 思いがけない名前だった。 「えーっ! おまえを嫌ってる ひねくれ者って、氷河のことなのかよ !? 」 何とか声と言葉を取り戻した星矢が、絶句していた時間の分を上乗せした大声をラウンジに響かせる。 星矢の大声は 一応、否定を期待した疑問文の体裁をとっていたのだが、瞬は その疑問文に ひどく傷付いたような顔になった。 星矢の大声の10分の1ほどの音量で、ぽそぽそと自分の憂いの訳を語り始める。 「嫌ってる……っていうか……。僕、最近、氷河に避けられてるような気がするんだ……」 「いや、さすがにそれはないだろ。おまえが そう思うっていうんなら、それは おまえの方が ひねくれた見方をしているんだと、俺は思うぞ」 “誰よりも優しく清らかで素直”を売りにしている瞬が、なぜ そんな ひねくれた疑念を抱くことになったのか。 星矢には、瞬の考えが全く解せなかった。 それは紫龍も同様だったらしい。 「うむ。俺も、氷河はおまえを嫌ってなどいないと思うぞ。奴には おまえに好意を持つ理由はいくらでもあるが、嫌う理由は一つもない」 命をかけた戦いを共に戦ってきた、深い信頼と強い絆で結ばれている仲間たちの確言。 瞬は、仲間たちの言葉を疑いたくはなかっただろう。 仲間たちの言葉を信じたかっただろう。 だが、瞬の中には、そういう疑念を抱くことになった それなりの根拠というものが ちゃんと存在していたのだ。 「でも、僕……。僕、以前は、氷河と目が会うことが多くて、それで、そのたびに 僕は 氷河に笑い返してたんだよ。毎日、1日に6、7回は そんなことがあったんだ。なのに、この頃、そういうことが全然ないんだよ……!」 「1日に6、7回も目が会ってたって、そっちの方が 全然おかしいじゃん」 「え……」 瞬は、それをおかしいことだとは思わず、むしろ それを当然もしくは自然なことだと感じていたらしい。 星矢に『おかしい』と断じられて、瞬は大いに戸惑ったようだった。 そんな瞬に、紫龍が別視点からの考察を提示する。 「1日に6、7回 目が会うのが おかしいかどうかということについては、俺には何とも言えないが――もしかしたら 氷河は、今頃になって、人をじろじろ見るのは 日本では不作法とされる行為だということを知ったのではないか? それで 自らの行動を改めたということも考えられる」 それが日本の作法だと知らされたところで、そんなものを“自分のしたいこと”に優先させる氷河ではないことを、紫龍は百も承知していた。 紫龍が言いたかったのは、つまり、人が人を見なくなるのは“嫌いだから”だとは限らないということだった。 医者に食事制限を指示されている糖尿病患者は、熱愛するケーキから目を逸らし、高血圧症や腎臓病を患っている者は、ラーメンや鰻重の可憐な姿を視界に入れないよう注意するものだろう。 そういうことを、紫龍は瞬に知らせたかったのである。 が、紫龍の目的は、あいにく 果たされなかった。 氷河に日本的礼儀正しさなど求めていなかったらしい瞬が、気落ちしたように瞼を伏せる。 「……僕、氷河に見られてるの、嫌いじゃなかったんだけど……。何ていうか、ちょっと どきどきして、うきうきして……。少し緊張もするんだけど」 「男に見詰められて どきどきするのって、滅茶苦茶 変だろ」 「そんな……」 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間であるところの星矢に、『おかしい』の上に『変』を重ねられた瞬は、仲間への反駁に及ぼうとしたようだった。 そして、だが、瞬は、それを『変ではない』と主張する根拠や理屈を思いつけなかったのだろう。 結局 瞬は、 「変だから……僕、氷河に嫌われちゃったのかな……」 と、力ない声で呟き、項垂れてしまった。 瞬は、思考がすっかりネガティブモードになってしまっているらしい。 星矢の励まし(?)が、全く励ましになっていなかったせいもあるだろうが、瞬は、消沈の度合いを更に増し、しょんぼりと肩を落として、ラウンジを出ていってしまったのである。 「瞬がブラコンだとは思わないし、瞬は 絶対に人に嫌われるタイプじゃないとも思うけど、でも、瞬も どっか変だよな」 瞬の姿を呑み込んだラウンジのドアを見やり、星矢が 呟く。 「瞬が変だとしても、さすがに 氷河ほどではないだろう」 というのが、紫龍のコメントだった。 |