翌日の日曜日は、朝から いいお天気だった。 空は、パパの瞳の色のように真っ青。 お天気の日には、パパに“高い高い”をしてもらうか、公園のブランコに乗ることにしていたナターシャは、パパとマーマと三人で朝ご飯を食べたあと、マーマと お散歩に出たのである。 パパの帰宅は朝方だったので、パパは 少し眠ってから合流予定。 まずは、大人の付き添いがないと使用禁止のブランコに乗って 青い空に近付き、その後、合流したパパの青い瞳を見ながら“高い高い”。 それが、その日のナターシャの予定だった。 が、予定は未定で、決定ではない。 ナターシャの完璧な予定は、思わぬ闖入者のせいで かなり狂うことになってしまったのである。 その闖入者は、マーマに背を押してもらいながら ナターシャがブランコに乗っていた時、どこからともなく公園に現われた。 本当に どこからともなく、いつのまにか、その人はナターシャとマーマの前に立っていたのである。 その人が どちらの方向から、ブランコの方にやってきたのか、ナターシャには全く わからなかった。 ナターシャが その人がいることに気付いた時、ナターシャとマーマの他にも たくさんの親子連れがいた児童公園から、人の姿はすべて消えていた。 それまで公園内に響いていた よそのおうちの子供の歓声も、よそのおうちのママたちの声も、今はない。 異変に気付いたマーマが、ナターシャの乗っていたブランコを揺らすのをやめる。 「黄金聖闘士が 何とも のどかな」 マーマに そう告げた人の背が高いのか低いのか、髪が長いのか短いのか、どんな服を身に着けているのかさえ、ナターシャには わからなかった。 声が大きいのか小さいのか、高いのか低いのかも わからない。 ナターシャにわかったのは、それがナターシャの知らない人で、その声も聞いたことのない声だということだけ。 その人の姿は ひどく ぼんやりしていて、まるで灰色の煙でできているようだった。 その灰色の煙と 煙の周囲の空気が歪んでいる。 この人は “人”ではないのか――と、ナターシャが疑った瞬間、灰色の煙は人の姿に変わった。 金色の鎧をまとった、赤い長い髪の男の人。 「マーマ……!」 ナターシャは ブランコから飛び下り、マーマの側に駆け寄ったのである。 その手を握りしめてから、マーマの顔を見上げる。 灰色の煙だった人の姿を視界に映し、マーマは呆然としていた。 「どうして、あなたがここに……」 瞬きもせずに その人を見詰めたまま、マーマが 優しさも厳しさもない不思議な声音で、その人に問う。 灰色の煙だった人は、にこやかに、 「もちろん、君の命をもらうため」 と答えてきた。 ナターシャは すぐに気付いたのである。 これが星矢おにいちゃんたちの言っていた“変な敵”――相対する人間の心の底にある弱点を実体化する技を使う“敵”なのだと。 マーマは、星矢おにいちゃんたちが言っていたことを忘れているのだろうか。 これは“変な敵”の心理攻撃。 この人は、マーマの心の底にある弱点を実体化した偽物。 マーマが 星矢おにいちゃんたちの話を忘れているはずがない。 それが偽物ならパパでも倒すと言っていたマーマは、だが、動けずにいる。 では、マーマは、偽物だとわかっていても、この人に衝撃を受けずにはいられないということなのか。 この人は、いったい誰なのか。 不安になったナターシャは、マーマの手を握る自分の指に ぎゅっと力を込めたのである。 マーマは かすれた声で、その人の名を呼んだ。 「カミュ……なぜ あなたなの……」 “パパの先生”の名で呼ばれた人は――アテナの聖闘士の“敵”は――マーマに 優しい微笑を返してきた。 「幸せそうだね、アンドロメダ」 アンドロメダ。 ナターシャは その名を知っていた。 以前、パパがお話してくれた お姫様の名前。 地上の平和と 地上に生きている人々を守るために、自分の命を投げ出して 怪物の生贄になったお姫様の名前である。 “変な敵”は、ナターシャのマーマを お姫様の名で呼んだ。 「君は、私の死の上に、自分の幸福を築いた」 マーマに“カミュ”と呼ばれた人が、パパのお話と逆のことを言う。 「あ……」 マーマは、そのお話を『間違っている』とは言わなかった。 では、アンドロメダ姫も 世界中に何人もいるのだろうか。 地上の平和と 地上に生きている人々を守るために、自分の命を投げ出して 怪物の生贄になったアンドロメダ姫と、“カミュ”を犠牲にして、その死の上に自分だけの幸福を築いたアンドロメダ姫が? そして、“カミュ”を犠牲にして 自分だけが幸福になったアンドロメダ姫がマーマだと? ナターシャは、そんなのは嘘だと思った。 マーマは そんなことは絶対にしない――と。 「マーマ、どうしたの? このおじちゃんはパパの先生なの? でも、ニセモノだよ。星矢おにいちゃんたちが そう言ってたよ。マーマ、忘れたの!」 偽物のカミュから目を離さないマーマの手を引っ張って、ナターシャは訴えた。 偽物のカミュを見詰めたまま――ナターシャを見ずに――マーマがナターシャに尋ねてくる。 「ナ……ナターシャちゃん、一人でおうちに帰れる?」 マーマが、パパを呼んできてくれと言うのなら、ナターシャは もちろん そうするつもりだった。 しかし。 「君は、氷河が 私や氷河の母に向ける分の愛情を すべて独り占めして、今の幸福を築き、その中で生きているんだ」 「ナターシャちゃん、逃げて。ここから離れて」 しかし、マーマは、ナターシャに この場から逃げてほしいだけらしい。 「君の今の幸福は、死んだ者の上に築かれた幸福だ」 「ナターシャちゃん、ここから離れて。公園の外に行って」 「マーマっ!」 マーマは、偽物のカミュの上に視線を据えたまま、ナターシャの肩を押した。 ナターシャは、こんなマーマの様子を見るのは初めてで、どうしても マーマを一人 この場に残していくことができなかったのである。 数歩分だけ、マーマに肩を押された方に歩いてから、ナターシャは その場に立ち止まった。 「私は冷たく寒い死者の国で苦しんでいるというのに。私はこんなに寂しく悲しいのに」 「ナターシャちゃん、早く……」 「君だけが のうのうと生き延びて、氷河の愛を独り占めしている。君は 私が死んでよかったと思っているのだろう」 「そんなことない……」 「人としての幸福は 既に十分に堪能しただろう。そろそろ 君も 私たちのいるところに来てもいいのではないか」 偽物のカミュは 相変わらず 穏やかな微笑を浮かべているのに――彼がマーマに向かって投げる空気は透明な氷の剣のように、マーマの腕を、肩を、頬を切り裂いていた。 それでもマーマは動かない。 人を傷付けることを楽しんでいるような偽物のカミュの攻撃。 傷がどんどん増えていくのに、マーマは動かない――動けずにいる。 『僕は氷河よりクールだから』と言っていたマーマが、その身に どんどん傷が増えていくのに、ただ そこに黙って立っているだけなのだ。 偽物のカミュは マーマが動けないことを当然のことと思っているらしく、穏やかに見えていた彼の顔は徐々に傲慢な人間のそれに変わっていった。 「マーマっ!」 やはり マーマを一人残して ここから逃げることはできない。 ナターシャは、マーマの許に戻ろうとした。 ナターシャの声に、マーマが我にかえる。 偽物のカミュに出会った驚きと衝撃を引きずっているようだったマーマの思考と感情が、やっとマーマの手に戻った――戻り始めているようだった。 これまでより明確な響きと輪郭のある声で、マーマがナターシャを制止する。 「来ちゃだめっ。ナターシャちゃん、逃げてっ」 そんなことができるわけがない。 マーマが いつものマーマに戻っても――マーマを一人残して“逃げる”ことなどできるわけがない。 パパを呼びにいけというのでないなら、絶対に。 「マーマっ!」 ナターシャは、マーマの許に駆け戻った。 偽物のカミュは、もう優しい目をしてはいない。 その男は、マーマとナターシャを冷たい目で見下ろしてきた。 「君と その子が 二人揃って消えれば、氷河は以前のように、師を倒した後悔を人生の伴侶にして生きていくことになるだろう」 偽物のカミュは、目だけでなく声も冷たい。 「カミュが そんなことを言うはずがない。あなたはカミュじゃない」 「そう思っていれば、君は 心穏やかに 幸せでいられるというわけだ。氷河が過去の戦いを忘れて 幸せに生きていくことを 私が望んでいると、そう思っていれば、君は罪悪感に苛まれることなく 幸福でいられるというわけか」 元に戻りかけていたマーマの頬が蒼白になる。 偽物のカミュの言葉の何が マーマの心を傷付けているのかが、ナターシャには わからなかったのである。 ナターシャは、もちろん、偽物のカミュの言葉を すべて理解できてはいなかった。 それでもナターシャには、マーマが なぜ こんなに つらそうな目をするのか、その訳がわからなかったのである。 マーマは、“ザイアクカン”が好きで、“幸せでいること”が嫌いなのだろうか。 そんなはずはない。 “幸せ”は、誰もが欲しがるもののはずだった。 だが、マーマは――少なくとも、今のマーマは――そうではないらしい。 「ナターシャちゃん、逃げて。お願い……」 マーマの小宇宙がナターシャを包む。 マーマと一緒でなければ 逃げるわけにはいかないと、ナターシャは首を横に振った。 そんな二人を、偽物のカミュが せせら笑う。 「弱くなったな。幸福な生活が、君を こんなに弱くしてしまったのか?」 そうしてから 彼は、まるで残虐な悪魔のように 唇を引きつらせ、冷たい嘲笑を辺りに響かせた。 「さようなら、アンドロメダ」 もう駄目だと――ナターシャは、もう駄目だと思ったのである。 パパよりクールなマーマが太刀打ちできない相手。 誰も勝てるわけがない。 マーマの小宇宙はナターシャを包んでいる――ナターシャだけを包んでいる。 マーマはナターシャを守ろうとしている。 マーマは、自分自身を守ろうとはしていないのだ。 こんなことがあるだろうか。 マーマは“カミュ”に倒されてもいいと思っているのである。 ナターシャを包んでいるマーマの小宇宙は温かく優しい。 そして、強く大きい。 この小宇宙に包まれている者には、誰も危害を加えることはできないだろう――マーマの小宇宙に包まれている者は安全だろう。 だが、ナターシャは、そんなことには耐えられそうになかった。 マーマの小宇宙に守られている者は安全――ということは、つまり、マーマが敵に倒される様を、ナターシャは 安全な場所で見ていなければならないということなのだ。 どうすればいいのか。 どうすればマーマを助けることができるのか。 ナターシャは泣きそうだった。 否、ナターシャは泣いていた。 マーマが死ぬ。 マーマが死んでしまう。 そんなことは 絶対にあってはならないのに。 マーマの死ぬところなど見たくはないのに、目を閉じることができない。 巨大な氷の斧がマーマに向かって振り下ろされる。 「マーマっ、いやーっ !! 」 ナターシャは悲鳴をあげた。 |