宮子は、子供たちのみならず、美穂たち星の子学園の職員たちにも 自分が快く思われていないことを自覚しているようだった――少なくとも感じ取ってはいるのだろう。 子供たちだけでなく美穂たちをも避けて、星の子学園の陽の射さない裏庭に逃げ込んでいるところを見ると。 氷河が宮子の側に歩み寄っていくと、彼女は氷河には本音(おそらく)をぶつけてきた。 ほとんど口をきかず、感情らしい感情を表面に出さない氷河を、彼女は中立の立場にいる人間なのだと思っていたのかもしれない。 もちろん それは とんでもない誤解だったが。 氷河は常に、瞬の味方だったのだが。 「どうして、ここの子供たちは、私に懐いてくれないの! 瞬ちゃん、瞬ちゃんって、そればっかり! 私と あの人と、何が違うの!」 「……」 氷河は、『何もかも違う』と思ったのだが、その思いを言葉にはしなかった。 宮子の心を思い遣ったからではない。 その事実を口にしたら、事態が 更に面倒なことになりそうだと思ったからである。 瞬は、子供たちと宮子の両者が傷付かないことを願っている。 氷河は、瞬の意に沿った行動を とらなければならなかった。 「俺にそんなことを言われても困る。俺は“ここの子供たち”じゃないからな。貴様は 子供の世話に向いていないんだろう」 「向いてない? どうして? 私は、かわいそうな子供たちを幸せにしてあげたいと思って、かわいそうな子供たちを助けてあげたいと思って、優しくしてあげたいと思って、ここに来たのよ。そして、一生懸命、子供たちのためになることをしているつもり。なのに、子供たちは 全然 私の気持ちをわかってくれない!」 『貴様も、この学園のガキ共の気持ちを わかっていないだろう!』と言ってしまえたら、どんなに楽か。 しかし、そんなことを言って 宮子を逆切れさせ、逆恨みをさせるわけにはいかない。 自分の気持ちをわかってくれない子供たちを責めたり、自分のほしいものを手にしている瞬を妬んだりされては たまらない。 氷河は、それだけは避けなければならなかった。 では、どうしたらいいか。 氷河が思いついた策は、彼自身が宮子に憎まれること――だった。 「これは あくまでも俺の私見だが――。おまえは自分以外の人間をすべて、自分の価値観で見、判断し、評価している。それが子供たちには気に入らんのだろうな」 “星の子学園の子供たち”ではなく、瞬ではなく、このトラブルの ほぼ部外者である男が 宮子に憎まれるにはどうすればいいか。 それは ごく簡単な作業で成し遂げられる。 事実を 宮子に知らせてやれば、彼女は 彼女に事実を知らせてしまった男を憎むだろう。 氷河は そう考え、考えたことを実行に移した。 「おまえは、ここのガキ共を かわいそうな子供、不幸な子供だと思っている。おまえの価値観で。おまえの目で見れば、そうなんだろう。世間一般の尺度で測っても そうなのかもしれない。だが、ガキ共は、自分をかわいそうな子供だとは思っていない――いや、自分をかわいそうな子供だと思いたがっていないんだ」 「そんなことはないでしょう。現に、あの子は泣いていた。それは、親と一緒に暮らせない自分をかわいそうだと思っているからでしょう。かわいそうな子供たちなのよ。ここにいる子供たちは」 氷河が思っていた通り――宮子は 子供たちのことが まるでわかっていない。 彼女は、氷河に反駁してきた。 「そう思うのは、おまえの勝手だ。だが、あの子は、悲しいから泣いたのであって、自分を かわいそうだと思って泣いたんじゃない。自分を悲劇の主人公にして 酔うなんて 馬鹿なことを、ここのガキ共はしない。あいつ等は、おまえとは違う。あいつ等は、瞬や星矢や美穂たちが 自分を愛してくれていることを知っている。あいつ等は、おまえと違って、そこまで馬鹿じゃない」 「……」 とりあえず、宮子の憎悪や憤りを 白鳥座の聖闘士に向けさせることが 自分の務め。 瞬のために、そうするのが最善。 その目的さえ達成されるなら、それでいい。 そう考えている氷河には、宮子の心が どういう方向に揺れようか、そんなことは どうでもよかった。 別に宮子を追い詰めたいわけではないのだが、そもそも氷河は、自分の愚かさや傲慢に気付いていない人間が 好きではなかった。 まして、瞬の価値を認められない人間など、人間の中で最も愚かな人間である。 「あいつ等は、おまえが 自分たちを見下していることに気付いているんだ。かわいそうな子供、不幸な子供だと。事実は どうでもいい。とにかく、あいつ等は そう感じている。かわいそうな子供たちを“幸せにしてあげたい”なんて傲慢の極みだろう。瞬や星矢たちは、あのガキ共に“幸せになってほしい”と願っている。その二つは、似ているようで、全く違う。それが おまえには わかっているか」 「……」 宮子は わかっていない――わかっていなかった――ようだった。 彼女は“幸せな”人間だから、自分の思い上がりにすら気付いていなかったのだろう。 「だ……だとしても、私が あの子たちのために そう思っているのだということくらい、わかってくれたっていいでしょう!」 「おまえは、小学校にも入っていない歳のガキに、そんなことを要求するのか」 否、学園の子供たちは、わかっているのだ。 宮子が、宮子自身のために “そう思って”いることを。 わかっていないとしても、感じ取ってはいる。 「私はただ、かわいそうな子たちに優しくしてあげたいと――」 『優しくして“あげたい”』 そして、宮子は まだわかっていないようだった。 とはいえ、彼女の考え方も その姿勢も、一ボランティアとしては何の問題もないものなのである。 人がボランティアに取り組む動機は、それこそ 人それぞれ。 たとえば、それが 自己満足のためでも、自分の幸福を再認識するためでも、自分より恵まれない境遇にある者の姿を見ることで 自分を優越者だと思うためであっても、何の問題もない。 彼女が、世話をする者たちから、当然のごとくに 謝意や好意や敬意等の報いを得られると思い込んでさえいなければ。 子供たちの心を傷付けさえしなければ。 瞬を妬みさえしなければ。 氷河が宮子を気に入らないのは、彼女が その禁忌を犯しているように思われるからだった。 「おまえの目的は何だ」 「目的? だから、私は、かわいそうな子供たちを幸せにしてあげたいと――」 宮子が、初めて会った時に 彼女が告げたボランティア志願の理由を もう一度 繰り返そうとする。 氷河は それを遮った。 「おまえは、“かわいそうな子供たちを幸せにしてあげたくて”ここに来たのではないだろう。別の目的があるはずだ。かわいそうな子供たちに慕われる自分というものを経験してみたかったとか、優しい心の持ち主だと思われたかったとか」 宮子が 自分で自分を 優しい人間だと思うことは構わない。 彼女の目的が それなのであれば、どんな弊害もない。 とはいえ、『私を 優しい人間だと思え』と子供等に求めることは してはならないし、叶えられない目的である。 だが、彼女の目的は十中八九、それだろう。 であればこそ 彼女は、彼女の目的を体現している瞬を妬み、瞬に憤りの目を向けるのだ。 そんな女のために いらいらすることさえ、氷河には時間の無駄に思えてきた。 だから、氷河は、宮子に言ってやったのである。 「優しさというものは、まず 相手の心と立場を慮るところから始まる。その想像力がない人間は 優しい人間にはなれない。自分の思う幸せを押しつけることは 優しさでも何でもない。おまえは、その想像力がない馬鹿なんだ。もう少し 利口にならないと、優しい人間にはなれない」 『おまえは優しい人間ではない』と明言せず、『もう少し 利口になれば、優しい人間になることは不可能ではない』と言ってやったのは、氷河なりの温情だった。 『私が あの子たちのために そう思っているのだということくらい、わかってくれたっていいでしょう』と 臆面もなく言ってのける女なら、『なら、この学園の子供たちも優しい人間ではない』くらいの反駁が返ってくるだろうと、氷河は考えていた。 だから、多少 きつい物言いをしても、この女相手なら構うまいと、氷河は思っていたのだ。 だというのに、氷河の案に相違して、宮子は氷河に反論してこなかったのである。 何も言わずに ぽろぽろと涙を零し始め、しまいには 両手で自分の顔を覆って、その場にしゃがみ込んでしまった。 「う……」 氷河が低く、呻き声を洩らす。 氷河は、涙が嫌いだった。 瞬以外の人間の涙は、どれも美しくないと思う。 嫌いな涙の中でも、自分の涙は最悪。 思い出すたび、恥ずかしさに いたたまれなくなる。 次に嫌いなのが、自分を正当化しようとする人間の涙――特に、大人のそれ。 氷河は、即座に その場を立ち去ることにしたのである。 大人が流す、自分を正当化するための涙。 そんな見苦しいものを長く見ていたら、自分は宮子に どんな罵倒を投げつけてしまうか わからない。 そう思ったから。 氷河が 彼の決意を実行に移すことができなかったのは、そこに 瞬に連れられた子供たちがやってきて、 「あーっ、氷河おにいちゃんが芳司サンを泣かせてるーっ」 「いーけないんだ、いけないんだ。しゅーんちゃんに言ってやろ!」 と囃し立て始めたからだった。 「氷河! 芳司さんに何を言ったの!」 子供たちの 揶揄はともかく、瞬までが一方的に仲間を悪者と決めつけて、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間を詰責してくる。 氷河が 瞬以外の人間の涙が嫌いなのは、しばしば こういう事態を招くことがあるからだった。 問答無用で、泣かせた方が悪者にされる事態。 何というタイミングの悪さと、氷河は 思わず天を仰いでしまったのである。 瞬たちが来るのが あと5分早かったなら――これが 宮子が泣き出す前だったなら――瞬は 自分の味方になってくれていただろうにと、今更 思っても仕方のないことを思って、氷河は臍を噛んだ。 だが。 「おねーちゃん、氷河おにいちゃんに いじめられたの?」 「泣くなよー。氷河にーちゃん、これで、そんなに悪い奴じゃないんだぜ」 「氷河おにいちゃんは、瞬ちゃんのいうこと、よく聞く いい子だよ。怒んないでいてあげて」 「そうそう。氷河にーちゃん、子供の俺たちが見ても、誤解されやすいタイプだって思うけどさー」 つい先ほど宮子の励ましを拒絶していた少女が、今は宮子の髪を撫でてやっている。 子供たちが 宮子の側に駆け寄り、口々に氷河の悪口(弁護)を並べ始めたのは、宮子が泣いているから――ではないようだった。 おそらく 瞬が、宮子の気持ちを思い遣ってやるようにと、子供たちを諭したから。 子供たちは、瞬に、想像力を働かせて 宮子の心を思い遣ることを教えられ、瞬に教えられたことを早速 実践しているのだ。 それが わからないほどには、宮子も馬鹿ではなかったらしい。 優しい子供たちに囲まれた宮子は、また別の涙を流し始めた。 |