「昨日、芳司ファシリティの社長から、宮子さんのことで 電話をいただいたの」
沙織が、氷河と瞬に そう切り出したのは、それから1週間が経った 春の夜のこと。
沙織の書斎に呼びつけられた氷河と瞬は、彼女の やたらと大きく頑丈なデスクの前で、互いの顔を見合わせることになったのである。
芳司宮子は、氷河に『馬鹿で優しくない』と断じられた翌日から、星の子学園に来なくなっていた。
星の子学園の園長には、体調不良で しばらく学園のボランティアを休みたいという連絡があったようなのだが、なにしろ 宮子が星の子学園に来なくなったのは、彼女が子供たちの前で盛大に泣いてしまった翌日からのことだったので、瞬も、学園の子供たちも、宮子を“奇妙”と言っていた美穂たち職員も、宮子の身を――というより、心を――案じていた。
宮子の心身を案じていないのは氷河だけで、彼は、『それでも 星の子学園でのボランティアを続けたなら、少しは あの女を見直してやったのに』と、宮子の逃避と臆病を非難していた。

「あの女、俺にいじめられたと父親に泣きついたのか。俺は、馬鹿を馬鹿と言っただけだぞ。文句があるなら、直接 俺に言ってくればいいだろう」
沙織の叱責を受ける前に、氷河が 苛立たしげに言葉を吐き出す。
沙織は、一方の言い分だけを聞いて、他の一方を責めるようなことをする人間でない。
その沙織の前で、自分が芳司宮子をいじめた事実を さっさと認めてしまった氷河を、瞬は 慌てて弁護した。
「氷河が悪いんじゃありません。僕が氷河に いろんなことを押しつけてしまったのが いけなかったんです。沙織さんにまで ご迷惑をおかけして 申し訳ありません」

「ああ、そういうことではないの。芳司さんは、宮子さんが あなた方や星の子学園のみんなに迷惑をかけたと、謝っていらしたの」
沙織が その手を振って、瞬の謝罪を遮る。
「宮子さんは、あなた方に会うのが つらいらしくて、それで お父様が代わりに」
「あの女、自分が しでかしたことの尻拭いも自分でできないのか……!」

自分は間違ったことを言っていないし、していない。
ただ、やり方が まずかっただけ。
もし反論があるのなら、宮子は、それを 彼女を責めた男に直接 言うべき。
そして、宮子が本当に 優しく 強い人間になりたいと思っているのなら、あんなことのあった翌日にこそ 必ず星の子学園にやってきて、子供たちに元気な姿を見せるはず。
それをしないのは、卑怯で惰弱。
――というのが、氷河の考えで、氷河の常識だった。
そうしない宮子に、氷河は 改めて腹を立てたのである。
沙織は、だが、宮子に同情的だった。

「事情は わかっているつもりだけど……。宮子さんの気持ちも察してあげなさい」
「なぜ 俺が、あんな女の気持ちを察してやらなければならないんだ。あの女は、瞬を――」
あの女は、瞬の価値が わからない人間。
そして、瞬の優しさがわからない人間。
氷河にとって、そういう人間は、人間的に敬意を払えない下等で下劣な存在だった。
氷河の 苛立たしげな口調に、沙織が溜め息をつく。
そして、彼女は、
「氷河。あなた、本当に何も憶えていないのね……」
と呆れた顔で ぼやいてみせた。

「俺が何も憶えていないというのは、どういうことだ――どういうことですか」
今更――という感はあったが、氷河は、アテナに対して 敬語を使うことを思い出したらしい。
そんな氷河に 言うべきか 言わずに済ませるべきかを、沙織は一瞬 迷ったようだったが、結局 彼女は 少し重たげに口を開いた。

「あなたは 以前、一度、宮子さんに会っているのよ。一ヶ月ほど前。HSフィナンシャルグループの本社ビル落成記念パーティの会場で。瞬と あなたが 私のボディガードとして ついてきてくれたことがあったでしょう。私のコサージュの花びらが 一枚 取れてしまって、瞬が それを直すために ちょっと会場を出ていた時、あなたは お父様と一緒にパーティに来ていた宮子さんに会った」
「……」
氷河が無言なのは、もちろん、その記憶がないからである。
沙織に 危害を加える敵でない限り、パーティ会場を うろついている一般人の顔など 憶える必要もない。
それが沙織のボディガードとしての 氷河の心得だった。

「宮子さんは、前日 お風邪で寝込んでしまった お母様の代理で、あの会場にいらしてたの。で、あなたに見とれて 転びそうになったところを、あなたに抱きとめてもらった」
「……」
もちろん、氷河には そんな記憶もない。
「あなたは 宮子さんに『気をつけろ』と優しく言って、その青い瞳で 宮子さんを じっと見詰めたのだとか。あ、“優しく”とか“じっと見詰めた”というのは、もちろん、宮子さんの主観よ。普通に 誤解でしょうね」
「だろうな。俺が そんなことをするはずがない」
何か 嫌な予感がして――氷河の声音は、思いきり苦く重いものになった。
一瞬、探るように瞬の顔を見る。

「ええ。どう考えても、それは宮子さんの誤解よ。でも、とにかく、宮子さんは そうだったのだと思ってしまった。で、彼女は、私のスケジュールを調べたのでしょうね。彼女は、数日後、FSホテルのラウンジで 偶然を装って 私に近付いてきて、世間話を装って、あなたに決まった人はいるのかと尋ねてきた」
「沙織さん!」
それ以上、聞きたくない――というより、瞬に聞かれたくなかったから、氷河は 沙織の名を呼んで 彼女の話を遮った。
が、沙織の話は、ここからが本題。
もちろん 彼女は、彼女の話を途中でやめるようなことはしなかったのである。
むしろ彼女は、そこから声のボリュームを上げ、語調を強めてきた。

「言っておきますけど、あなたが さっさと あなたの為すべきことをしてくれていたら、私だって、あなたには好きな人がいるから諦めなさいと、宮子さんに言うことができていたのよ。でも、あなたがそれを怠っていたから、私は、あなたには決まった人はいないようだと、宮子さんに答えるしかなかったの」
「俺のせいなんですか」
「あなた以外の誰のせいだというの」
それは そうである。
それは そうなのだが、そういう話は せめて 瞬のいないところでしてほしい。
氷河は またしても今更ながらなことを、(今更なことだと わかっていたので、言葉にはせず胸中で)思った。

今となっては、氷河は、
「悪趣味な」
と、低く呻くことしかできなかったのである。
「同感だわ」
白鳥座の聖闘士の呻きに 心から賛同しているように 力強く深く、沙織は 氷河に頷いてみせた。
「宮子さんは、あなたはどんなタイプの人が好きなのかと、私に訊いてきた。あ、実際には もっと婉曲的に――『あんなに綺麗な方は、どういう人を好きになるものなのかしら』だったかしら。とにかく、あなたの好きなタイプを訊いてきた。私は『優しくて清らかな人』と答えた。間違ってないわね?」

そんなことを、瞬の前で念を押さないでほしい。
それが自分のことだと わかっていない瞬を見るのは つらい。
アテナは 彼女の聖闘士を いたぶって喜ぶ趣味でもあるのかと 氷河は疑い、そして、脱力した。
「それから、あなたが よく立ち寄るところを訊かれたから、瞬が よく行く場所を教えてあげたわ」
「余計なことを」
もはや アテナに対して敬語を使う気力も生めない。
氷河は、恨みがましい声で、(それでも一応)アテナではなく床に向かって、言葉を吐きだした。

だが、とりあえず それで、氷河には すべてが見えたのである。
自分が、芳司宮子を どこかで見たことがあるような気がした訳。
芳司宮子が、星の子学園のボランティアに志願してきた理由。
宮子のボランティアの目的が“優しい人だと思われること”だった事情。
その目的格が、“星の子学園の子供たちに”ではなかったこと。
すべては、芳司宮子の誤解が原因だったのだ。

そう考えれば、氷河が“馬鹿”と断じた宮子の言動も、その目的に沿った正当なものだったと言えないこともない。
彼女は、氷河に“優しい人”だと思ってもらえれば、本当に優しい人にならなくても、それでよかったのだ。
彼女のそれは、似非を好まない氷河によって 見事に否定されてしまったが。
彼女の不運は、氷河の周囲に 本当に優しい人たちが多くいたこと。
自分より幼く、自分より“かわいそうな”子供たちにまで優しさを示されて、彼女は 己れを顧み、星の子学園に来ることができなくなってしまったのかもしれなかった。
あるいは、彼女は気付いたのかもしれない。
氷河に“決まった人”はいないが、“心に決めた人”はいる――ということに。
それにしても。

「それにしても、どうして そんな誤解をしたんだ。俺が優しいなんて」
この上、瞬にまで馬鹿げた誤解をされたくない。
その事態を回避するために、隣りに立つ瞬に聞こえるよう、氷河はぼやいた。
氷河の心に決めた人が、
「誤解なんかじゃないと思うけど……」
と、呟くように言う。
その呟きを聞いて、もしかしたら 瞬は既に誤解し始めているのではないかと、氷河は慌てたのである。

「誤解だ! 俺は おまえ以外の人間に優しくしたことはない!」
慌てて反駁に及んだ氷河に、瞬から返ってきたのは やわらかい微笑だった。
「氷河は 自分を誤解してるの。氷河は、宮子さんに優しくしてあげたと思うよ。彼女が泣き出してしまうくらい……彼女のことを深く考えて、真剣に対峙してあげた」
「それは、おまえに頼まれたからだ! あの女が おまえの価値を見誤っているのが気に入らなかった。何もかも全部、おまえのためだ!」
『俺は 誰にでも親切で優しい』と言った方が、瞬の好意を得られることはわかっている。
だが、氷河は、自分を飾るために 瞬に嘘をつくようなことはしたくなかった。
誰にでも優しい男だと 瞬に“思われる”より、瞬にだけ優しい男だという事実を 瞬に“知って”いてもらいたい。
芳司宮子と違って、氷河は そう考える男だった。

「氷河は、僕に優しくすることが、僕の周囲にいる すべての人に優しくすることだって わかってくれてる。僕が それを望んでいることを、氷河は知ってるから。氷河は優しいから」
「……」
それは もちろん わかっている。
わかっていて、実践しようともしている。
だが、芳司宮子の例を挙げるまでもなく、氷河は人に“優しく”し損なってばかりいるのだ。
自信をもって、俺は優しい男だと言うことは、氷河にはできなかった。

「だが、あの女の それは誤解だ。少なくとも 俺は、あのパーティ会場で、あの女をじっと見つめたりはしなかった」
瞬に すべてを見透かされていることが気まずくて――氷河は 最後のささやかな抵抗を試みたのである。
瞬は、氷河の その言い分は認めてくれた。
「そうだね。氷河の瞳は とても綺麗だから――きっと、じっと見詰めてしまったのは、氷河じゃなく、宮子さんの方だったんだと思うよ。綺麗なものや好きなものと向き合っている時、人は時間の感覚が狂う。氷河と目が会った一瞬が、宮子さんには 永遠に思えるくらい長く感じられたんだろうね」
「瞬……」

氷河は、自分が瞬に いじめられているような気がしてきてしまったのである。
氷河は瞬が好きだったし、瞬にだけ自分を好きになってもらいたかった。
瞬に対しても、自分だけを見てほしいと願っていた。
他の人間のことなど考えないでいてほしいと。
それができない瞬だからこそ、氷河は 瞬を好きになったのだが。
そして、だから 結局、氷河は黙り込むしかなくなってしまったのである。
弁解も反駁も続かなくなった氷河が作り出す沈黙。
デスク以上に立派な椅子の背もたれに 肩を預け、アンドロメダ座の聖闘士と白鳥座の聖闘士のやりとりを 傍観者の目で眺めていた沙織が、再びデスクの上に身を乗り出す。

「とにかく、私の用件はそれだけよ。芳司さんと宮子さんのお詫びを、あなた方に伝えること。
以後、こんな面倒事が起きないように 注意すること。それから――」
「それから? まだ何かあるんですか」
問い返す氷河の口調が、生徒指導室に呼び出された素行不良生徒のように反抗的なものになったのは、この呼び出しのせいで、自分が“かわいそうな”男だということに気付かされてしまったからだったかもしれない。

沙織が、生徒指導教員のように偉そうに頷く。
「まだ何かあるわよ。私から あなた方への有難い忠告がね」
「有難い忠告?」
素行不良生徒が教員に“指導”されても 己れの素行を改めないのは、他者の指導を受け入れて 自分を変えることは 恰好の悪いことだと思っているからである。
そういう態度で、氷河は沙織に反問した。
だが、往々にして、目上の人間の助言や忠告は虚心に聞いておいた方が 自分のためになるもの。
氷河への沙織の有難い忠告は、本当に有難いものだった。

「瞬は うぬぼれられない人間だし、相手の心や立場を考えすぎて 行動できない きらいのある子だから、あなたの方が はっきり言わなきゃ駄目。迷惑なんじゃないか、相手の負担になるんじゃないかって、二人して――あなたまで瞬の気持ちを考えすぎて動かずにいたら、あなたが“心に決めている人”は、いつまで経っても“決まった人”にはならないわよ」
「沙織さん……!」
沙織の有難い忠告に、氷河より先に瞬の方が 反応を示す。
沙織は、だが、瞬のクレーム(?)を受け付ける気はないようだった。

「私の話は それだけよ。帰っていいわ」
生徒指導教員が 素行不良生徒に退室を命じたのは、気配りだったのか、優しさだったのか、自分の忠告が もたらす結果に責任を負いたくないからだったのか。
おそらく そのすべてだったのだろう。
地上の平和を乱す敵の出現以外の面倒事の回避が、アテナ先生の生徒指導の目的で、その目的が達成されれば、他の事柄は生徒当人の自己責任。
それがアテナ先生の生徒指導の基本姿勢だった。






【next】