王子様と泥棒






神様というものは、永遠の命と 人間には持ち得ない力を持つ存在。人間を超越した存在です。
とはいえ、だからといって、神様ではない人間には生きている意味がないとか、存在する価値がないとか、そんなことは決してありません。
人間は、神様が持っていない力を持っていますから。
人間は、人間にしか持ち得ない力を持っているのです。

その最たるものが、死ぬ力――死ぬことのできる力です。
人間は、生きていたい時に 必ず生きていることはできませんが、死にたい時には 自分の意思で 自分の命を終えることができます。
それは、神々には どれほど望んでも得られない力。
その上、人間は、自分の生き方を 自分で選ぶこともできます。
神様たちには、そんなことはできません。
太陽神として生まれた神様は、太陽を司る役目を放棄して 酒の神になることはできず、海を司る神として生まれた神様は、たとえ 海より山が好きでも 山を司る神にはなれないのです。
言ってみれば、神々は 決められたレールの上を走るしかない、速くて力のある電車。
人間は、道なき道を走ることもできる自動車のようなもの。
どちらにも 存在する意味や価値があることは 言うまでもありません。

ともあれ、そんなふうに、人間は 神様ほど強大な力がない代わりに自由。
そして、自由というものは、生きているものを とても魅力的な存在にする要因。
ですから、時に神様たちは 人間に恋をしたり、人間そのものを欲しがったりするのです。


さて、前口上は これくらいにして、物語を始めましょう。
昔々――この地上に まだ電車も自動車も走っていなくて、旅をする時には 馬に乗るか、自分の足で歩くしかなかった頃。
ある国に、瞬という名の、とても清らかな心を持った王子様がいました。
瞬王子は、心が清らかなだけでなく、その姿も とても美しく可愛らしく、瞬王子を知る すべての人に愛されている幸せな王子様でした。

その清らかさに魅せられた神が一柱。
それが、冥府の王ハーデスでした。
冥府というのは死者の国。
ハーデスは、その死者の国の王。それぞれの命を生き終えた人間たちの上に絶対の力で君臨する神でした。

人間は必ず いつか死にます。
いつかは、ハーデスの治める国に赴き、彼の支配を受けるものになります。
大神ゼウスでさえ、彼の国に手出しはできません。
しかも ハーデスは星や太陽を動かすことすらできるのです。
そんな強大な力を持つ冥府の王が 清らかな瞬王子に惹かれ、瞬王子を自分のものにしたいと考えたのです。

強大な力を持つ神様は、人間の都合など考えません。
瞬王子を自分のものにしたいと考えた その日のうちに、ハーデスは、瞬王子のいる お城に行って、生きたまま冥府のエリシオンにあるハーデスの城に来るようにと、瞬王子に言ったのです。
そこは いつでも春のように暖かく、綺麗な花々が咲いている楽園。
争いも憂いもない至福の園。
美しく平和なエリシオンこそ、清らかな瞬王子が生きるにふさわしい場所。
次の新月の夜に迎えに来るので、それまでに準備をしておくようにと、ハーデスは一方的に瞬王子に命じて、瞬王子の返事も聞かずに どこかに消えてしまいました。
本当に乱暴な話ですが、それでも、事前に予告をして準備期間までくれるハーデスは まだましな方。
神々の宴席で 神酒を給仕する者がいなくなった時、大神ゼウスは トロイの王子ガニュメデスを その後釜に据えるため、相手の都合も聞かず 問答無用で即座に 彼を誘拐していますから。


さて、清らかな瞬王子には、兄君がひとりいました。
名前を一輝といいます。
一輝国王は、瞬王子をとても愛していて、それはそれは 大切にしていました。
一輝国王には、最愛の瞬王子を誰かに渡すなんて、思いもよらないことでした。
それが たとえ絶大な力を持つ神であっても。
けれど、絶大な力を持つ神の望みを退けたら、ハーデスは不従順な人間に対して、どんな報復をしてくるかわかりません。
それが、国の民にまで及んだら大変です。
そんなことになったら 王の責任問題ですし、瞬王子も心を痛めることになるでしょう。
一輝国王には、それは とても不本意なことでした。

となれば、ここは、ハーデスに自発的に『瞬王子は いらない』と言ってもらわなければなりません。
他に、国の民を守り、瞬王子の心を傷付けずに済む方法はないのです。
そのためには どうすればいいのか。
一輝国王は、その方法を考えました。
考えて考えて、ある一つの方法を思いつきました。

ハーデスは、瞬王子の心が清らかだから 瞬王子に惹かれているのです。
ならば、瞬王子の心を汚せば、ハーデスは 瞬王子に魅力を感じなくなるだろう。
そして、瞬王子を手に入れたいと思わなくなるに違いない。
そう考えた一輝国王は、早速 瞬王子の心を汚すことにしたのです。
ところが、何ということでしょう。
一輝国王は、どうすれば瞬王子の心を汚すことができるのか、その方法が わからなかったのです。

何といっても、一輝国王は、瞬王子の心が清らかなことは知っていましたが、なぜ 瞬王子の心が清らかなのかを知りませんでした。
それどころか、そもそも“人間が清らかである”とはどういうことなのかさえ、一輝国王は知らなかったのです。
瞬王子が清らかなことは知っているのに。本当に おかしなことですが。
そこで 一輝国王はお城の中にいる 人格者の大臣や偉い学者の先生たちに知恵を求めたのですが、彼等の誰も、どうして瞬王子が清らかなのかを知らず、どうすれば瞬王子を汚すことができるのかを知りませんでした。
困り果てた一輝国王は やがて、こういうことは もしかしたら人格者の大臣や偉い学者先生より 市井の中で暮らしている庶民の方が詳しいのかもしれないと思いつき、その方法を知っている者を 国の民の中から探し出すことにしたのです。

そうして、一輝国王は、彼の国に おふれを出しました。
「誰でもいい。どんな身分の者でもいいから、瞬王子の心を汚すことができたなら、その者に この国を半分を与える。ただし、“汚す”というのは、えっちな意味に非ず」
という おふれを。
一輝国王は、名君の誉れ高い英明な国王。
最後の 付け足しは さすがです。
瞬王子はとても可愛らしい様子をしていたので、邪まな心を持つ者が おふれにかこつけて瞬王子に近付こうとするかもしれません。
一輝国王は、その事態を避けようとしたのです。
実際に そのおふれを見て、瞬王子を汚した時にもらえる ご褒美が瞬王子でないことを 不満に思う者が相当数いたのですけれど、それは さておき。

瞬王子の心を汚すことは、大層 難しいことだったのです。
一輝国王が出した おふれを知って、自分なら瞬王子の心を汚すことができると意気込んだ者たちが たくさん お城にやってきました。
彼等の心は、瞬王子の心より汚れていたでしょう。
瞬王子より清らかでないから、ハーデスは彼等に目をつけなかったはずですから。
自分なら瞬王子の心を汚すことができると意気込んで お城にやってきた人々は、自分の心が どんなふうに汚れたのかを 瞬王子に話して聞かせました。
『私は、信じていた友に裏切られた時、人を信じる心を失いました』
『私は、自分が持っていないものを持っている人に出会った時、それを持っている人を妬むことを覚えました』
そんなことを。
そして、
『清らかでいたって、いいことはない』
『ずる賢さを身につけて、他人を出し抜かなければ、損をするのは自分なのだ』
と、瞬王子を諭したのです。

けれど。
信じていた友だちに裏切られて 人を信じる心を失ったと言う人に、瞬王子は言いました。
「お友だちには、そうしなければならない事情があったのでは? あなたは、そのお友だちがどうして そんなことをしたのか確かめたんですか?」
自分が持っていないものを持っている人に出会った時、持っている人を妬むことを覚えたと言う人に、瞬王子は言いました。
「その人が持っていないものを、あなたは持っているのでは? もし、自分が持っているもののせいで、他の人に妬まれることがあったら、それは悲しいですね」

いろんな人が お城にやってきて、嘘をついたり、暴力を振るったり、自分を実際より良く見せようとしたことを 瞬王子に語りました。
なぜ そんなことをしたのかを、語りました。
瞬王子は、そんな人たちを責めることはしませんでしたが、それを是ともせず、優しい言葉で慰めてあげました。
そんなふうに。
瞬王子の心を汚そうとして 瞬王子の許にやってきた人たちは皆、瞬王子に優しい言葉を掛けられて、逆に 心を入れ替えて 自分のおうちに帰っていってしまいました。
見事に本末転倒ですね。

そんな人たちが100人もいたでしょうか。
そんな挑戦者たちを見て 頭を抱えていた一輝国王は、100人目の挑戦者が帰っていく頃には、すっかり焦慮の虜でした。
新月の夜は 刻一刻と近付いてきているのに、瞬王子は いつまで経っても清らかなままなのですから、それも当然のことだったでしょう。

人は、多かれ少なかれ、その心のどこかに美しくないものを持っているもの。
なのに どうして、それを瞬王子の心の中に生ませることができないのか。
誰もが簡単に汚れることができているのに、どうして瞬王子だけが汚れることができないのか。
一輝国王は、それが不思議でなりませんでした。






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