さて、その国の都に 一人の貧しい若者がおりました。 名前を氷河と言います。 氷河は、夜の酒場で 酒を振舞う仕事をしている時以外は、都の下町にある小さな家に、たった一人で、ひっそりと隠れるように 暮らしておりました。 氷河は大層 美しい若者でした。 青い瞳は、晴れた夏の空の色。 金色の髪は、厳しい冬に耐える人々に希望を与える お陽様の光のよう。 普通に暮らしていたら、氷河は 若い娘たちに きゃーきゃー騒がれていたことでしょう。 多少 貧しくても。 貴族や王族でない庶民は、程度の差こそあれ、みんな貧しいのですから。 そんな氷河が都の片隅に隠れるように ひっそりと暮らしているのには、深い深い訳がありました。 酒場勤めの貧しい若者――というのは、世を忍ぶ狩りの姿。 氷河の本当の お仕事は泥棒。 実は氷河は、この国いちばんの大泥棒だったのです。 とはいえ、氷河は 最初から泥棒だったわけではありません。 あまりお金持ちではありませんでしたが――はっきり 言うと、かなり貧乏でしたが――真面目に 働いて、ただ一人の肉親である 美しい お母様と二人で、貧しいながらも 誠実に生きていたのです。 氷河は、若くて健康でしたし、仕事も順調――特段のトラブルに見舞われたことがないという意味で順調。 食べるに困るようなこともありませんでした。 けれど、今から2年前。 氷河の大切なお母様が 重い病を得て、亡くなってしまったのです。 氷河の お母様――マーマは、とても腕のいい仕立て屋で 最高の裁縫師でした。 都の貴族の奥方や令嬢からドレスの仕立ての注文を受け、そのお駄賃で、女手一つで、氷河を育ててくれたのです。 氷河は 子供の頃から、毎日 朝早くから夜遅くまで 綺麗なドレスの仕立て仕事をしているマーマを見て育ちました。 マーマが作る綺麗なドレスを見て、いつも、『このドレスは どこかの貴族の奥方なんかより、マーマの方がずっと似合うのに』と思っていたのです。 大人になったら、いっぱい働いて、お金を貯めて、マーマのための絹のドレスを マーマに注文するのが 氷河の夢でした。 けれど、貴族の奥方が着るようなドレスは、氷河が酒場で3年 働いて手に入れられるお給金より高価なのです。 働いて手に入るお金の大半は日々の暮らしを成り立たせるのに消えていき、マーマのドレス代は なかなか貯まりませんでした。 そうしているうちに、もともと身体の弱かった氷河のマーマは病を得て、日々 弱っていき、半年ほど寝込んだ後、氷河の幸せを祈りながら その命を終えてしまったのです。 結局、ただの一度も綺麗なドレスを着ることなく。 氷河は、二度とマーマに会えないことが悲しくて、マーマを救えなかったことが悲しくて、マーマが亡くなってから しばらく呆然として何をする気にもなれませんでした。 氷河と同じように貧しい近所の おばさんたちや友人に慰められ、力付けられ、それで 氷河は 何とか マーマのお葬式を出すことができたのです。 そのお葬式の帰りに、氷河は、見覚えのあるドレスを着た、母子らしい二人連れの姿を見掛けました。 氷河のマーマが縫っていたドレスを着た貴族の奥方と令嬢らしき二人が、街の帽子屋さんに入っていく姿を見たのです。 マーマは毎日 他人のドレスばかり縫っていて、一度も自分で自分の縫った綺麗なドレスを着ることはできなかったのに。 貴族の奥方たちは、そのドレスを仕立てた人間の不幸を知らずに、楽しそうに笑っていました。 なぜ こんなことがあるのだろうと、氷河は思ったのです。 貧しい者たちは毎日一生懸命 働いているのに、貧しいまま。 お金持ちは 働きもせず、綺麗なドレスや帽子で その身を飾っている。 理不尽だと――あまりに理不尽だと、氷河は思ったのです。 この世に お金持ちと貧乏な人がいるのは、運命の不公平ゆえ。 貴族に生まれたか、平民に生まれたか。 支配者に生まれたか、被支配者に生まれたか。 それが、お金持ちと貧乏な人を分ける、運命の分かれ道なのです。 一生懸命 働いている人は、どれほど働いても いつまでも貧しくて、一度も働いたことのない貴族は、死ぬまで働くことなく贅沢三昧。 そんなのは おかしいでしょう。 一生懸命働いている人がお金持ちになって、働いていない人は貧しい。 それが 正しい あり方でしょう。 けれど、現実はそうではありません。 これは、つまり、富の分配が不公平なせいです。 そう考えた氷河は、その偏りを是正するために 泥棒というお仕事を始めたのです。 余っているところから、足りていないところに、富を移動する お仕事。 お金持ちの家にある お金や宝石を盗んで、貧しい者たちの手に渡す お仕事を。 氷河は、健康で、体力も運動能力もあり、敏捷で、度胸もある若者でした。 その上、“貧しい人を助ける”という仕事の目的は明白で、その目的は正しいこと(のはず)でしたので、罪悪感や逡巡を抱くこともありません。 当然、お仕事に失敗することはありませんでした。 そうしているうちに 氷河は、この都の内にある貴族の館で 彼が泥棒に入ったことのない館はないほどの大泥棒になっていったのです。 氷河が泥棒しているのは、決して 自分が贅沢な暮らしをするためではなく、貧しい人を助けるため。 そのために、窃盗行為を行なう。 貴族たちは躍起になって 国いちばんの大泥棒を捕まえようとしますが、庶民は みんな大泥棒の味方。 こういう泥棒を、義賊といいます。 義賊といっても泥棒に変わりはありませんから、捕まったら大変です。 絞首刑か斬首刑、よくて終身強制労働。 それでなくても、氷河は目立つ容貌の持ち主でしたからね。 それで、氷河は、都の片隅で 隠れるように ひっそりと暮らしていたのです。 |