そうして始まった、瞬王子を汚すための試み。 それは、 「僕は清らかなんかじゃないと思うんです。ハーデスは何か勘違いしているに違いありません」 という、瞬王子の告白から始まりました。 氷河は、その告白を信じませんでしたけれどね。 逆に『この地上に、僕より清らかな心を持つ人間はいません』と言われていたら、氷河は、そんな思い上がった人間の心は、わざわざ汚すまでもなく 汚れきっているに決まっていると思っていたでしょう。 本当のことを言うと、氷河は、人が清らかだということが どんなことで、人が汚れているということが どんなことなのか、よくわかっていなかったのですけれど。 ただ、瞬王子が優しい心を持っているのは事実なのだろうと、瞬王子の告白を聞いた氷河は思いました。 瞬王子は、綺麗なドレスを着た貴族の奥方や令嬢たちのそれより ずっと澄んで美しい瞳の持ち主でしたし、瞬王子が 兄である一輝国王に あんな提案をしたのは、国いちばんの大泥棒の命を救うためだったことは、氷河には わかっていましたから。 そもそも 神であるハーデスが そんな重要なことを見誤るなんて、到底 考えられないことですしね。 「神であるハーデスが、おまえを清らかだと認めたのに、おまえは その言葉を信じないというのか」 氷河が問うと、瞬王子は真剣な目をして こっくりと頷きました。 「僕だって、悪いことをしたことはあるんです。嘘をついたことだってあります」 「おまえが?」 すぐには瞬王子の言葉を信じる気になれず、氷河が再度 問い返すと、瞬王子の私室の壁際に控えていた小間使いたちが 慌てたように瞬王子の弁護を始めました。 「それは、私たちが失敗をしてしまった時に、私たちが罰を受けないように、瞬王子様が庇って下さるからで――」 「瞬王子様のせいじゃないんです」 「瞬王子様付きの小間使いは みんな、仕事で失敗して 首にされかけていたところを 瞬王子様に庇ってもらって、拾ってもらった粗忽者ばっかりで――」 「首になったら、私たちのお給金で なんとか暮らしていけてる家族が路頭に迷うことになるから――」 瞬王子付きの小間使いたちは皆、その申告通りに 粗忽な うっかり者揃いのようでした。 そして、彼女たちは皆、瞬王子の味方のようでした。 瞬王子が汚れなければならない今この時、瞬王子の優しさを証言して、瞬王子を庇うなんて、粗忽な うっかり者でなければできないことです。 もっとも、瞬王子を盗みにきた国いちばんの大泥棒を捕まえたのは、城の衛兵ではなく彼女たちでしたから、彼女たちは瞬王子の立派な護衛兵でもあったかもしれませんが。 小間使いたちに そんなふうに庇われて、瞬王子は、けれど なぜだか その身体を小さく丸めてしまったのです。 それから、瞬王子は ごく小さな声で言いました。 「僕は たまたま王子として生まれてしまったから、働かなくても――人の役に立つことができなくても、こうして何不自由なく暮らしていられますけど、みんなは 家族のために頑張って働いているんです。僕なんかより、みんなの方が ずっと立派だと思います」 「……」 瞬王子は、自分が王子として生まれる幸運に恵まれただけの無能者だということを、ちゃんと自覚しているようでした。 それは、氷河には、少々意外なことだったのです。 氷河が知っている貴族たちは、どうして自分たちが働かなくても 飢えることなく 綺麗な服を着て 立派なお屋敷に暮らしていられるのか――なんてことを考えたこともないような者たちばかりでしたから。 だからこそ 氷河は、そんな貴族の館から お金や宝石を盗むことを悪いことだと思うことがなかったのに。 「そんなことないですよ、王子様! 短気で怒りっぽい王様が、失策を犯した大臣や 外国の使者の無礼に腹を立てて、すぐに罰を与えようとしたり 処刑しようとしたりするたび、瞬王子様が なだめたり説得したりしてくださってるから、この国は 反逆も内乱もない平和な国でいられるんです」 「瞬王子様がハーデスに連れていかれたら、きっと このお城に勤めている兵士や召使いたちの半分は 早晩 王様に首を切られちゃうわ。迂闊で粗忽な私たちが、きっといちばん最初に。首を切られるって、失職っていう意味じゃなく、斬首刑っていう意味よ!」 「そうならないためにも、頑張って汚れてください」 「イケメンの大泥棒さん。瞬王子様を どうぞよろしくお願いします!」 迂闊で 粗忽な小間使いたちが、そう言って 揃って氷河に頭を下げてきます。 瞬王子付きの小間使い軍団に“瞬王子様を よろしくお願い”されて、何だか氷河は 目一杯 脱力してしまったのです。 ともかく、彼女たちが 瞬王子を大好きでいることだけは よくわかりましたけれど。 それは ともかく、さておいて。 瞬王子が いなくなると、このお城の兵士や召使いが半分 斬首刑になるという、小間使いたちの言葉は、氷河には聞き流してしまえないものでした。 氷河は、瞬王子を汚し損ねて 瞬王子と共にエリシオンに赴くつもりでしたから、その後 この国やお城が どうなるのかなんて、氷河は考えてもいなかったのです。 綺麗な服を着て 立派なお屋敷に住んでいる貴族たちが どうなっても構いませんが、毎日 一生懸命働いているのに 貧しい暮らしを余儀なくされている者たちが、自分のせいで 今より つらい目に会うかもしれないなんて、それは氷河には大変に つらいことでした。 心の中に 迷いが生じてきた氷河に、瞬王子が遠慮がちに尋ねてきます。 「あの……氷河は どうして泥棒なんていう お仕事をするようになったんですか? 泥棒は よくないことですよね? みんなは どうして泥棒の味方をするの?」 「そりゃあ、大泥棒キグナスは 貧しい庶民の味方ですもの。キグナスは、能無しのくせに偉そうに ふんぞり返っている貴族たちから お金を盗んで、貧しい人たちに分けてあげてるんですよ。それで 飢え死にせずに済んだ人が いっぱいいるんです」 「でも、私たちは、キグナスの味方じゃなく、瞬王子様の味方ですよ!」 「あ、でも、私も興味あるわー。大泥棒キグナス誕生の謎!」 「うんうん。知りたい、知りたい」 瞬王子の小間使いたちの乗りの軽さに、氷河は そろそろ うんざりし始めていました。 氷河は、決して、軽い乗りで泥棒を始めたわけではありませんでしたから、なおさら。 氷河は、意識して むっとした顔を作って、大泥棒キグナス誕生の謎を、瞬王子と その小間使いたちに語ってきかせたのです。 たった一人の、大切なマーマ。 朝から晩まで 他人の綺麗なドレスを仕立てて、真面目に誠実に働き続け、それで氷河を育ててくれた、優しく美しいひと。 他人のドレスを縫い続け、自分自身は ついに一度も綺麗なドレスを着ることなく、亡くなってしまったマーマの話を。 いいお医者様に診てもらい、高価な薬を飲むことができたなら、もしかしたら彼女は死なずに済んでいたかもしれない。 瞬王子たちに マーマの話を語っているうちに、氷河の中には、マーマが亡くなった時の悲しみや怒りが甦ってきて――氷河は あの時のように 本気で激昂してしまっていました。 「おかしいだろう! おまえが 同じ病に罹ったら、おまえの兄は、すぐに 国いちばんの医者を呼び、高価な薬を おまえのために手に入れるだろう。そうして、おまえは死なずに済むんだ。なのに、なぜ俺のマーマは死ななければならなかったんだ。不公平だ。おまえは たまたま王子に生まれただけなのに、おまえは生き残り、俺のマーマは死ぬ。俺は その不公平が許せなくて、泥棒になったんだ!」 瞬王子に怒りをぶつけても、瞬王子を怒鳴りつけても、氷河のマーマは生き返ってはきません。 マーマが死んだのは、瞬王子のせいではありません。 それは わかっていたのですけれど、氷河は 瞬王子を責めずにはいられませんでした。 氷河に責められた瞬王子は――その瞳は、涙で濡れていました。 自分が責められているからではなく、氷河と 氷河のマーマのために。 そして、王子の力をもってしても、氷河のマーマを 氷河の手に取り戻してあげることのできない現実を知っているから。 「やっぱり、僕は清らかじゃなかったんだ。氷河から大切なお母様を奪って……」 涙で濡れた声で そう呟き、瞬王子は 瞳を潤ませたまま、氷河をまっすぐに見詰めてきました。 そして、強い意思を感じさせる声音で、氷河に告げたのです。 「僕、頑張って もっと ちゃんと汚れます。氷河が きっと自由になれるように」 真剣な目をして そう断言する瞬王子を、本音を言えば、氷河は 馬鹿かと思ったのです。 馬鹿で――なんて綺麗な瞳、なんて綺麗な涙だろうと 思いました。 そして、おそらく 瞬王子の心を汚すことは誰にも できないだろうと。 できることなら、ハーデスが興味を失うくらいに ちょっとだけ瞬王子を汚して、瞬王子をハーデスに渡さずに済むようにしてあげたかったのですが、それは無理なことだろうと、氷河は思いました。 これなら、生きたまま瞬王子とエリシオンに行くという氷河の計画は成功するに違いありません。 けれど、どういうわけか、それが ちっとも嬉しくないのです。 氷河は、自分の心が よくわかりませんでした。 ただ、瞬王子の側にいたいので、『瞬王子を汚すことはできない』とは言わずに、瞬王子を汚すために努めている振りだけは続けましたけれど。 都の片隅で ひっそりと暮らしている 貧しい人たちの話を聞くことに、瞬王子は 大層 熱心でした。 氷河から そういった話を聞くたびに 涙ぐみ、瞬王子は、一輝国王に 民の不平等を正す仕組みを考えるように進言しているようでした。 |