氷河の泥棒仲間のアイザックが 一輝国王のお城に忍び込んできたのは、ハーデスの指定した期限の新月の夜が いよいよ あと1日と迫った細い細い弓張月の夜でした。
アイザックは、氷河に泥棒の仕方を教えてくれた、泥棒の先輩。
この国で いちばんの大泥棒は氷河ということになっていますが、それは 氷河が 自分の盗んだものを貧しい人たちに ばらまくという、いわゆるスタンドプレーをして名が売れているからで、実は 泥棒の技術はアイザックの方がずっと上。
王の居城に忍び込むなんて、アイザックには お隣りの家に回覧板を回しにいくより簡単なことだったでしょう。
もっとも、アイザックは肝心の回覧板を持っていませんでしたけれどね。

アイザックは 瞬王子が氷河のために用意してくれた立派な部屋に驚き、目を剥いて、それから気を取り直し、探るような目を氷河に投げてきました。
「明日が期限の新月の夜だから、おまえの考えを確かめておこうと思ってな。都は おまえと瞬王子の噂でもちきりだぞ。大泥棒キグナスは、瞬王子をハーデスの手から盗み出すことができるのかどうか。今のところ、下馬評は、大泥棒キグナスはやってくれる派と、キグナスは無欲で優しい心の持ち主だから 瞬王子を汚すことはできないだろう派が半々。どっちにしても、それで この国の運命が決まる」
「この国の運命? 大袈裟な。瞬は この国の王じゃない。綺麗で優しいだけの無力な王子だ」

アイザックに そう答える氷河の声には、まるで元気がありませんでした。
明日が期限の新月の夜。
瞬王子の瞳は 今も清らかに澄んだまま。
氷河の計画は順調に進んでいるのに、なぜだか氷河の心は少しも弾んでいなかったのです。
アイザックは、そんな氷河を怒鳴りつけてきました。
あ、もちろん、警備兵に気付かれないように低く小さな声で。

「やっぱり、マーマ一筋のおまえの認識は その程度か。生きている時も死んだあともマーマしか見ていなかった おまえは知らんかもしれないがな、瞬王子は この国の平和の象徴だぞ。いいか、もし おまえが瞬王子を汚すことができたなら――瞬王子が汚れてしまったら、短気で好戦的で野心家な一輝国王のストッパー役だった瞬王子が、これまで通りに この国を守ってくれるかどうかわからなくなる。おまえが 瞬王子を汚せなかったら、そもそもストッパー役の瞬王子がいなくなるんだから、この国は 早晩 どこかの国と戦争になるだろう。俺たちも のんきに貴族の館に忍び込んでなどいられなくなる。戦争になれば、国の民の半分は略奪者と殺人者になるだろうよ。そして、残りの半分は そいつらに殺されるんだ」

「……」
アイザックの語る この国の未来は、氷河には途轍もなく重く大きな衝撃でした。
瞬王子の小間使い軍団から、瞬王子がいなくなったあとの お城がどうなるのかを憂う話は聞いていましたけれど、瞬王子の不在が戦争に発展するかもしれないなんて、そんなことは氷河は想像したこともありませんでしたから。
氷河は、瞬王子と一緒に 生きたままエリシオンに行き、そこでマーマに会うことしか考えていなかったのです。

「どう決着がつこうと、それが運命なら、俺は仕方がないと思う。瞬王子を汚すことができても できなくても、おまえを責める気はない。俺が案じているのは別のことだ」
「別のこと?」
大泥棒キグナスが瞬王子を汚せるかどうか。
この国の平和が守られるかどうか。
そのこと以外に、それ以上に 案じなければならないことがあると、アイザックは言うのでしょうか。
この国の未来の悲観的運命という衝撃から立ち直れないまま、氷河はアイザックに尋ねました。
アイザックが、その隻眼で 氷河の顔をじっと見詰め返してきます。

「おまえが瞬王子を汚して、この国の半分を手に入れるために頑張っているのなら、俺は何も言わない。その成否で、おまえを責めようとは思わない。おまえは おまえなりに頑張ったんだろうと思うだけだ。だが、そうでなかったら――この国のことも 瞬王子のことも考えず、死んだ者のことしか考えていないのだったら――最初から 瞬王子を汚すつもりがなくて、死んだ人に会うために、瞬王子を汚そうとしている振りをしているだけなのなら、話は別だ」
「……」
アイザックに泥棒の技を教えてもらう時、氷河は 自分が泥棒になりたいと思うようになった訳を、彼に話していました。
マーマの死が、人の運命の不平等が、どうしても許せないからだと。
そうして、氷河は アイザックに 泥棒の技術を教えてもらいました。

アイザックは どうやら氷河の考えを すべて見透かしているようでした。
それが事実だったので、氷河はアイザックに何も言えなかったのです。
マーマに会いたいの一心で、他のことは何も考えずに、自分は瞬王子を汚そうとしている振りをしているだけなのだ――なんて、本当のことは。
氷河が言えなかった言葉を、アイザックが言葉にしてしまいます。
「そうなのか? おまえは おまえの死んだ母親に会うために 瞬王子を利用しようとしているのか? おまえが欲しいのは、この国の半分でも、貧しい者たちが飢えずに生きている世の中でもなく、死んだ母親だけなのか? そのために、瞬王子を汚そうとする振りをしているのか?」
「俺は――」
氷河には答えられませんでした。
『その通りだ』とは。
『そうすることの何が悪いんだ?』とは。

何も答えずに無言で その場に立ち尽くしている氷河を、アイザックもまた無言で見詰めます。
アイザックにだって、何も言うことはできなかったでしょう。
明日の夜は、もう新月。
瞬王子は清らかなまま。
もう何をするにも遅すぎます。
それでも、せめて一発 氷河を殴っておきたいと思ったアイザックは 拳を握りしめたのです。
その拳を振り上げ 振り下ろす前に、アイザックは微かな気配に気付いて、氷河の部屋のドアを 音を立てずに開けたのです。
そこに、瞬王子が立っていました。
瞳を涙で いっぱいにして。

無許可で お城に入り込んでいるアイザックは、本当は すぐに 瞬王子の前から 逃げ出さなければならなかったのですけれど――彼は そうしませんでした。
逆に、瞬王子の方が アイザックと氷河に 弁解を始めます。
「僕……もし僕が汚れることができなかったとしても、それは氷河のせいじゃなく、僕の努力が足りなかっただけだと、氷河に言おうと思って、それで――」
それで、瞬王子は、この夜更けに氷河の部屋を訪ねてきたようでした。
そして、氷河とアイザックの思いがけない やりとりを聞いてしまったのです。
氷河は、すべてを瞬王子に知られたことを悟り、頬を蒼白にしました。

「氷河と 氷河のマーマのためになら、僕はハーデスの許に行きたい。でも、この国と 国の民も守りたい。僕は――」
瞬王子の瞳から、ぽろぽろと綺麗な涙の雫が幾つも 零れ落ちます。
次から次へと、透き通った綺麗な涙が零れ落ちます。
正義の味方であるはずの氷河が 泣かせたのです。
その涙を拭ってやることは おろか、『ごめんなさい』を言うことすらできない自分が、氷河は恨めしくてなりませんでした。

信じていた人に裏切られたというのに、瞬王子の涙は清らかなまま。
氷河を責めることなく、自分の信頼を裏切った男のために、その心を思い遣り、ハーデスの許に行きたいとまで、瞬王子は言ってくれました。
信じていた人に裏切られても、瞬王子は汚れない――その清らかさを失わないのです。
優しい人は、その優しさで、汚れも醜悪も不信も すべてを浄化してしまうのでしょう。
瞬王子は、信じていた人に裏切られたことが これまでにあったのでしょうか。
人間は 意識せずに つい うっかり、人の信頼を裏切ってしまうこともある生き物です。
瞬王子の周囲に 誠実で慎重な人ばかりがいたはずがありません。
まして、瞬王子は この国で最高の権力を持つ者の最も近い場所にいる人間。
瞬王子を 我欲のために利用しようとする者は、これまで 幾らでもいたでしょう。

瞬王子は これまで幾度も 人に裏切られてきたに違いありません。
けれど、それでも、瞬王子は 人を信じることをやめなかった。
それは、愚かさではなく、強さです。
人に優しくできる人間が馬鹿であるはずがありません。
瞬王子の清らかさは、瞬王子の強さと聡明が作り出すもので、瞬王子を汚すことは、最初から誰にもできないことだったのです。
それができるのは、瞬王子その人だけ。
氷河にも、他の誰にも、それはできないことだったのです。
そのことがわかったからといって、氷河は、自分には何の責任もないと言うつもりはありませんでしたが。

瞬王子に 涙の雫を幾つも生ませたのは、他ならぬ氷河自身。
その事実は変えようもなく――変えようのないことを、氷河は知っていました。
それ以上、氷河に涙を見せることは、氷河を責めることになると思ったのでしょう。
瞬王子が 氷河とアイザックの前から駆け去ります。
瞬王子の姿が見えなくなった途端――瞬王子の涙を見ずに済むようになったのに――氷河の心は ひどく寂しい気持ちになりました。
温かい陽だまりが、暗く重い雲によって 消し去られてしまったような、そんな気持ちに。


その時になって、氷河は やっと気付いたのです。
自分のために流される瞬王子の涙を見て わかったのです。
自分が本当に欲しかったのは、亡くなった母の面影ではなく、“この人の笑顔をいつまでも見ていたいと思える人”だったこと。
その人のために一生懸命に生きたいと思えること――だったのだと。
氷河は、そして、たった今、その人を見付けました。
その人のために生きたいと、今――まさに今、氷河は 心の底から強く願っていました。

目的と目標さえ はっきりすれば――氷河は 至って前向きな男でした。
目的のものを手に入れるための努力を惜しむことはありませんでしたし、そのための才にも恵まれていました。
さしあたって今、氷河がしなければならないことは。
瞬王子をハーデスに渡さないこと。
瞬王子の清らかさを 損なわないこと。
そうして、この国の平和を守ること。

「今のが 瞬王子か。泣かせてはならない子だぞ、あれは」
半分が叱責、半分が忠告。
アイザックの言葉に、
「ああ」
氷河は頷きました。

その声、その表情には、つい先ほどまでとは 打って変わって、力と覇気に満ち満ちています。
氷河は、2年に足りない時間で この国いちばんの泥棒になってのけた男。
その気になれば、大抵のことは やり遂げてくれるでしょう。
氷河なら、きっと大丈夫。
強い意思の輝きを感じる氷河の眼差しに、そう確信し、安堵して、アイザックは 来た時同様 月の影のように静かに、氷河の前から立ち去ったのでした。






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