「そうして、隠されていた羽衣を見付けた天女は、その羽衣を身にまとって 空高く舞い上がり、やがて天の世界に帰っていったのです。残された漁師と子供は、天女の消えた青い空を いつまでもいつまでも見詰めていました」 絵本の表紙には、美しい天女の姿が描かれていた。 奈良時代のものだろうか。 純白の衣、純白の裙、そして、仏像やキリスト教の聖人の光背のように重力を無視して翻る 虹色の領巾。 現代では 実物を目にすることはなく、シンデレラ姫や白雪姫、同じ日本の かぐや姫とも違う、古代日本の衣装を身にまとった優美な女性が 空中で舞っている。 ナターシャが その天女の絵の前から動かないので、瞬は予定を変更し、『ぐりとぐら』の代わりに『羽衣伝説』の絵本を購入したのである。 その絵本を最後まで読んでやってから、瞬は、その絵本を購入したことを後悔した。 漁師に羽衣を奪われ隠されて、天に帰ることができなくなってしまった天女。 仕方なく 羽衣を隠した男の妻になり、彼との間に子を成した彼女は、数年後、奪われた羽衣を見付けると、夫と子供を残して 天に帰っていく。 それが、羽衣伝説の大筋。 物語の結末は知っていたのだから、瞬は予測しておくべきだったのだ。 その絵本のストーリーと結末が、ナターシャの胸に、 「ドーシテ、天女は飛んでいっちゃうの? パパと子供と 離れ離れになっちゃうのに」 という疑念を生じさせることを。 その答えを、瞬は知らなかった。 自分が天女なら、決して 家族を残して 天に帰ったりしない――と思うだけで、天女の心はわからない。 「そうだね……どうしてなのかな。天の世界が 天女が もともと いた世界だったからなのかもしれないし、羽衣が自分の手に戻ったら 天の世界に帰らなきゃならない決まりだったのかもしれない。もしかしたら、地上に縛りつけられているのが嫌で、自由な空に帰りたかったからなのかもしれない」 家族を残して天に帰る天女の気持ちが理解できない瞬には、曖昧で あやふやな答えしか返せない。 そんな答えでナターシャは納得してくれるのか。 むしろ、自分で考えさせて、想像力を養わせるべきか。 瞬が そんなことを悩んでいると、ナターシャから 思いがけない反応が返ってきた。 「マーマ、飛んでっちゃイヤ」 「え……?」 ナターシャは、よそのおうちのママの心がわからず困惑していたのではなく、天女の物語を自身の家族に重ねて、その胸中に不安を生んでいたらしい。 ナターシャの不安が あまりに思いがけないことだったので、瞬は驚き、そして、つい、 「飛んでいっちゃうのは氷河の方だと思うけど……」 と呟いてしまっていた。 が、ナターシャには、瞬のその呟きの方が思いがけないものだったらしい。 「パパは飛んでったりシナイヨー」 確信に満ちた声で、きっぱりと――むしろ、あっさりと――ナターシャは言い切った。 瞬には、ナターシャの自信の根拠が わからなかったのである。 「どうして そう思うの」 「パパは、マーマとナターシャが大好きだもの」 「僕だって、氷河とナターシャちゃんが大好きだよ」 その気持ちが、ナターシャに伝わっていないということがあるだろうか。 確かに瞬は 氷河ほどナターシャを甘やかしてはいなかったが、それはナターシャを愛していないからではない。 それが わからないほど、ナターシャは甘えん坊ではない。 ――と、瞬は思っていた。 ナターシャが首をかしげ、瞬の顔を覗き込んでくる。 ごく短い時間、何かを探るように瞬の瞳を じっと見詰め、それからナターシャは、 「ナターシャも、パパとマーマが大好きー」 と言って、瞬の首にしがみついてきた。 大好きだから、離れない。 大好きなら、離れない。 ナターシャはまだ、“人と人は、大好きでも離れなければならないこともある”ということは知らなくてもいいと思う。 瞬は、ナターシャの華奢な身体を しっかりと抱きしめ返したのである。 ナターシャが ふと見せた、疑うような目が、瞬の気に掛かった。 |