「あの氷河が、力で おまえに敵うわけがないのにさー」 そんなコメント付きで、星矢が氷河の言を瞬に伝えたのは、それから数日後。 瞬が非番で 家に――自宅ではなく、氷河の家に――いる時だった。 天に飛び去ろうとする瞬を 自分の許に引きとめる時、氷河が用いるのは“力”ではない。 おそらく 氷河は、瞬の優しさや同情心に訴えることで、それをするだろう。 決して 瞬が氷河やナターシャの側を離れることを奨励するわけではないのだが、『だから、氷河の泣き落としには気をつけろ』と、半ば笑い話として、星矢は瞬に氷河の言を伝えたのだ。 当然 瞬は その笑い話を聞いて笑うだろうと――笑って受け流すだろうと、星矢は思っていた。 だというのに、瞬は、星矢の笑い話に微笑一つ返してこなかったのである。 代わりに 瞬は、何事かを深刻に思い詰めたような目をして、星矢には訳のわからないことを語り始めた。 「氷河は……残された者の悲哀を知っているから、自分以外の人に 同じ思いをさせたくないと思っているんだよ、きっと」 星矢は 最初、瞬の言う『自分以外の人』を瞬のことだと解したのである。 『母を失い、師を失い、残された者の悲哀を知っている氷河は、瞬に同じ思いをさせたくないと思っている。だから 氷河は どこかに飛んでいきたくても、そうすることができずにいる。氷河から自由を奪っている自分が心苦しい』 そういうことを 瞬は考えているのだと、星矢は理解した。 そう理解すると同時に、瞬の その考えは間違っていると、星矢は思ったのである。 が、瞬の言わんとするところは――瞬の考えは――“もっと間違って”いた。 「氷河は、本当は、もっと普通の――綺麗で可愛い女の人と 普通に恋をして、幸せな家庭を築きたかったんだと思う。でも、氷河はアテナの聖闘士で、明日の命の保証もない。だから、普通の人に悲しい思いをさせたくなくて――アテナの聖闘士の事情を知っていて、あらゆる意味で常に死の覚悟ができている僕を パートナーに選んだんだ。氷河がナターシャちゃんを引き取ったのは、もちろん ナターシャちゃんを幸せにしたいっていう強い思いがあってのことだったろうけど、ナターシャちゃんは既に 最悪といっていいほどの不遇の中にあって、それ以上 不幸になりようがなかったから――常に死と隣り合わせのアテナの聖闘士にでも ナターシャちゃんを 幸せにすることはできるっていう確信を持てたからでもあったと思う……」 切ない目をして、瞬は彼の仲間たちに そう言ったのだ。 そんなことがあるか! と、もちろん星矢は思った。 瞬の考えに反発した。 氷河が 幼い頃から瞬に どけだけ執着していたのかを、瞬は知らないのかと。 そう、星矢は 瞬を怒鳴りつけようとして――その直前で、星矢は気付いたのである。 瞬は知らないのだ。 幼い頃の瞬の瞳は いつも涙で潤んでいて、いつも視界がぼやけていた。 傍観者である仲間たちには明瞭明白に見えていた事柄や光景を、瞬は見ていない。 あの頃のことを、瞬が今も知らないままなのだとしたら、それは その事実を瞬に伝えていない氷河の怠慢である。 「ナターシャはシアワセダヨー。パパとマーマがいるからー」 瞬より よほど ものが見えているナターシャの頭を撫でながら、星矢は、自分がすべきことは瞬の間違いを正すことではなく、氷河の怠慢を責め、氷河に瞬の考えを改めさせることなのだと思ったのである。 |