「僕に、プロのテニスプレイヤーにならないかって……」
「なに?」
コーチではなくプレイヤー。
さほど突拍子のない発想ではないのに、氷河が そのパターンを思いつけなかったのは、成人し、社会人としての経験も 相応期間あり、社会的には 医師としての仕事を持ち、ナターシャという娘もいる瞬に、まさか現役のプレイヤーになることを求める人間がいるはずがないという、氷河にしては常識的な判断のためだったろう。
つまり、これから本格的にテニスを始めるには、瞬は歳が行き過ぎている――という常識的判断。
運動能力や体力は 常人のそれを越え、見た目も 今だに 十代で通る瞬に、年齢などという物差しは無意味至極なものだというのに。

「今のままでも十分に世界を狙えるとか、君がこのテニススクールにやってきたのは運命の神の導きだとか、校長先生が やたらと意気込んじゃって……」
「世界を狙えるとは――おまえに 地上世界を征服しろとでもいうのか」
アテナの聖闘士に『世界を狙え』というのは、そういうこととしか思えない。
つい真顔で呟いてしまった氷河に、瞬が 泣きそうな目をして訴えてくる。
「僕、知らなかったんだよ! まさか、あの主任コーチがテニススクールの箔付けに名前を貸すためだけに招聘された人で、本当はコーチでも何もなくて、現役の男子シングルスの世界ランキングプレイヤーだったなんて! 一般人にしては、ちょっと いい動きをするなぁとは思ってたけど、せいぜいアマチュアの都大会レベルだろうと……。だって、現役の世界ランキングプレイヤーが民間のテニススクールの親子無料体験コースの視察に来て、入学希望者の保護者と打ち合いをするなんて、普通 思わないでしょう!」

それは非難なのか、言い訳なのか、それとも泣き言なのか。
そのどれであっても、瞬の訴えは的外れだと、氷河は思った。
プロのテニスプレイヤー。
身も蓋もない言い方をすれば、それは、テニスで金を得ている人間ということである。
自分のテニスに金を出してくれる金持ちがいれば、その要望を叶えるべく努めるのは、正しく 彼の仕事である。
となると、この場合 問題なのは、瞬が打ち負かした相手がプロのテニスプレイヤーであることではなく、
「世界ランキングプレイヤー?」
であることの方である。

「ん……。30位前後らしいんだけど、僕、そういうことには疎くて……」
世界ツアーランクを持つテニスプレイヤーが、世界にどれほどいるのかは知らないが、その数はアテナの聖闘士全員の数より はるかに多いだろう。
アテナの聖闘士になることに比べれば、世界ランキングプレイヤーへの門は 比較するのも 馬鹿らしいほど広き門である。
更に、その中で30位だというのなら(トップでもないというのなら)、取り立てて騒ぎ立てるほどのものではない(と、氷河は思った)。
「大したことはないじゃないか。ま、たとえ世界ランキング1位のプレイヤーでも、おまえに勝てるはずはないが」
だが、だからこそ 瞬は、その世界ランキングプレイヤーに負けてみせなければならなかったのだ。

「『手加減してくださって、どうもありがとう』って言って、フォローはしたんだけど……。僕に打ち負けてから、そのあとのティーラウンジでの お茶の席でもずっと、彼、顔が引きつったままだった」
その世界ランキングプレイヤーがしたのは、手加減ではなく油断だったろう。
そして、瞬も、対応を間違った。
「マーマ、かっこよかったヨー」
ナターシャが嬉しそうなのが、唯一の救いである。
「それはそうだろう」
とナターシャに笑顔で答えてから、氷河は、
「どうして、そんな目立つことをしたんだ!」
瞬を叱りつけた。
その叱責に 一瞬 身をすくめた瞬が、実に瞬らしくなく、更に弁解を重ねてくる。

「だって、あの人、テニススクールの廊下で、連れの人と話をしながら よそ見して歩いてて、ナターシャちゃんにぶつかったのに、『ごめんなさい』を言わなかったんだよ! そういうのって、よくないでしょう。だから、ちょっと お灸を据えるつもりで……。ナターシャちゃんに、正義は勝つってことを示しておかなきゃならないと思ったから……」
「ナターシャを突き飛ばしたのかっ!」
瞬の弁解を聞き、氷河は即座に瞬の主張の正当性を認め、瞬を叱った自分の不徳を猛省した。
現役の世界ランキングプレイヤーなら、体力もあり、体格もいいだろう。
そういう男が 小さな女の子を突き飛ばすなど あってはならないことであるし、そのことについての謝罪がないなど言語道断。極悪非道、人面獣心の振舞いである。
眉を吊り上げた氷河を見て、瞬が慌てて彼の誤認を正してくる。

「突き飛ばしたんじゃなくて、手がぶつかっただけ。でも、わざとじゃないにしても、自分が よそ見してて 小さな女の子にぶつかったら、『ごめんなさい』を言うのが良識のある人間の振舞いでしょう。ナターシャちゃんは、ちゃんと前を見て、まっすぐ歩いてたんだよ。あの人が急に手を振りまわすから……」
瞬の口調は未だに弁解口調だったが、これは どう考えても、瞬が弁解をしなければならないようなことではない。
氷河は、むしろ 瞬が弁解口調でいることに憤った。
「おまえが罪悪感を抱くことはない。おまえのしたことは、完全に正しい。いや、まだ手ぬるい。悪党は完膚なきまでに叩きのめさなければ……!」
「もう、正義は勝ったの! 彼に関しては、これ以上 何かするのは やめた方がいいよ。それでなくても、無名の素人に打ち負けて自信喪失しちゃってたみたいだし」

今にもナターシャが入学を希望しているテニススクールに乗り込んでいきそうな勢いで 掛けていたソファから立ち上がった氷河の手を掴み、瞬がナターシャの父を引き留める。
アテナの聖闘士がモンスターペアレントになるなど、洒落で済む話ではない。
それ以前に、今の氷河にはテニススクールに殴り込みに行っている時間はない。
彼は そろそろ出勤の時刻だった。

「多分、テニススクールへのコーチとしての名義貸しの他に、校長先生の創ったテニスファンドにスポンサーになってもらう話が出てて、それで 彼は校長先生の視察に同道してたんだと思うんだ。なのに、肝心の校長先生が 自分を無視して、僕の勧誘にだけ熱心で……。プライドも相当 傷付いたろうし、僕、ちょっと お灸を据えすぎちゃったみたい」
マーマの苦境を察したらしいナターシャが、すかさず援護射撃を入れてくれる。
「校長先生、ナターシャにイチゴのケーキをご馳走してクレタヨー」
ナターシャの援護は実に的確。
それで、氷河は 少し冷静になってくれたようだった。
「そうか。校長先生は親切で いい人だったんだな」
家族にだけ笑顔とわかる笑顔を作って、氷河が頷く。
氷河は、そして 消沈している瞬を慰めた。

「正義が勝ったのなら、それは いいことだ。おまえが気に病む必要はない」
「だから、それだけで済まなかったから……」
「ああ、スカウトされたんだったな」
そもそもの問題が それだったことを思い出し、氷河がソファに腰を下ろす。
瞬が困っているのは、悪逆非道の世界ランキングプレイヤーの無礼ではなく、“親切で いい人”であるところの校長先生の勧誘の方なのだ。

「とにかく もう一度 来てほしいって言われて、来週 再訪の約束をさせられたんだ。名前や住所を教えなきゃ よかった」
「仕事の都合で行けなくなったとでも言って、断わりを入れればいいじゃないか」
瞬は 何を困っているのかと訝りつつ、そう告げた氷河を、今度はナターシャが その場に立ち上がり、
「駄目! ナターシャ、もう一度 行くの!」
と、鋭い声で遮ってくる。
瞬が 面倒事が 手ぐすねひいて待っている危険な(?)テニススクールと縁を切ることができないでいるのは、どうやら ナターシャの都合があるせいらしかった。

「ナターシャは、そんなに そのテニススクールが気に入ったのか?」
悪逆非道のコーチ(もどき)がいるというのに。
ナターシャが邪悪の輩に恐れを成していないのなら、それは大いに結構なことだが、そんな不快な者がいる場所に あえて近付くこともあるまい――と、氷河は思った。
人が危険を承知で危地に飛び込んでいくのは、そこに危険を冒してでも手に入れたい宝があるからなのだということに、氷河は考えが及んでいなかったのだ。
そう。
悪逆非道のコーチ(もどき)がいるテニススクールには、ナターシャの心を捉えて離さない貴重な宝が あったのだ。

「その約束の日に、あのテニススクールで、常設のショップとは別の特設会場で、テニスウェアの展示即売会が開催されるんだよ。ナターシャちゃんが――」
「ひらひらのスコート、買ってもらうの!」
すっかり その気になっているナターシャを がっかりさせるわけにはいかない。
そのために、瞬は 危険な(?)テニススクールを再訪しないわけにはいかない。
瞬は、そういう事情で、にっちもさっちもいかない状況に追い込まれていたのだ。
そんな瞬を しばらく無言で見詰めていた氷河が、ふいに 微妙な抑揚を帯びた声で瞬に尋ねてくる。

「その約束の日には、無礼者の世界ランキングプレイヤーも来るのか?」
「今 ツアーはオフらしいから、きっと。校長先生は 彼以外の現役プレイヤーやテニス協会の人たちも連れて来るみたい」
世界を狙える(かもしれない)無名のテニス初心者の実力と才能を見極めるために。
そう思っただけで、瞬は気が滅入ってくる。
が、氷河は、なぜか 妙に楽しげな目を瞬に向けてきた。
そして、
「おまえをスカウトする気をなくさせればいいんだろう。簡単だ」
と、いかにも気軽な口振りで言ってのける。

氷河の口調に、悪逆非道のコーチへの怒りが感じられないのは いいことだが(これ以上の罰は、“目には目を”ではなく“目には目と歯を”になってしまうので)、
「テニスか……。とりあえず、ルールを覚えることにしよう」
という氷河の呟きに、瞬は 途轍もなく嫌な予感を覚えてしまったのである。
「テニスのルールを覚えるって、何のために……?」
「ん? 俺が自発的に何かをするのは、いつだって おまえとナターシャのためだ。おまえの相手は俺くらいじゃないと務まらないだろう。普通の世界ランキングレベルなんて、馬鹿らしくてやっていられまい。俺が すべて丸く収めてやる。大船に乗ったつもりで安心していろ」
「……」

『俺が自発的に何かをするのは、いつだって おまえとナターシャのためだ』というのは事実だろう。
『おまえの相手は俺くらいじゃないと務まらないだろう』というのも事実――少なくとも一般人には務まらないという意味では事実――だろう。
『普通の世界ランキングレベルなんて、馬鹿らしくてやっていられまい』というのも事実――“やっていられない”のではなく“やってはいけないと思う”という意味で事実。
しかし、『俺が すべて丸く収めてやる』は、信用ならない。
まして、『大船に乗ったつもりで安心してい』ることなど、瞬には到底できそうになかったのである。
瞬の嫌な予感は、いや増しに増していくばかりだった。






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