約束の日。
ついに念願の ひらひらのスコートを買ってもらえると大張り切りのナターシャと、テニスのルールと技を完璧にマスターしたらしい氷河に引っ張られる形で、瞬は、約束の地に向かった。

預言者モーセに率いられてエジプトを脱出し 約束の地に向かったイスラエルの民は、約束の地に続く道が苦難に満ちていたため、そんなところには行きたくないと不平ばかりを口にしていたという。
大抵の試練や苦難は 笑顔で耐える自信のある瞬も、今日ばかりは、そんなイスラエルの民の気持ちがわかるような気がしたのである。
約束の地に至らなくても、人は生きていくことができるのだ。
ならば、今いる場所で 精一杯 生きていけばいいではないかと、意地でもイスラエルの民を約束の地に連れていこうとしている預言者モーセに進言してやりたい。
そんなことを考えながら、暗澹たる気持ちで、瞬は約束の地に向かったのである。

そんな瞬の胸に、ごく小さなものではあったが希望の光が宿ったのは、テニススクールの門前に星矢と紫龍の姿があるのを認めた時。
「おまえとナターシャが大ピンチだから、ガードに来いって言われたんだけど」
「黄金聖闘士が4人掛かりで挑まなければならないような敵が テニススクールにいるとは、アテナの聖闘士の戦いも様代わりしたものだな」
それは、他意のない本心なのか、それとも皮肉なのか。
星矢と紫龍を呼びつけた氷河の意図がわからない瞬には 判断のしようがなかったのだが、それでも(氷河に比べれば常識の持ち合わせが多いはずの)仲間たちの登場に、瞬は力づけられた。

もっとも、瞬が見い出した小さな希望の光は、喜色満面・笑顔全開で瞬を出迎えた校長の、
「先日の瞬さんのプレイを、このテニススクールのプロモート用に記録していたんです。そのビデオを見せたところ、こんな才能が市井に埋もれていたことに 皆が驚きましてね。ぜひ 瞬さんのプレイを 自分の目で じかに見たいというので、今日は テニス協会の理事全員が見学に来ています。瞬さんに出会えただけでも、私は このスクールを設立した甲斐がありましたよ!」
という言葉で、風前の灯になってしまったが。
校長の周囲には、先日 瞬に打ち負かされた世界ランキングプレイヤーと、テニス協会の面々が十数人ほど立っている。
世界ランキングプレイヤーの頬が青ざめているのは、自分がまた 常人離れした無名の素人とゲームをしなければならない憂鬱ゆえなのだろう。
稀有な才能との出会いに歓喜している校長は、世界ランキングプレイヤーの頬の蒼白に、まるで気付いていないようだった。
シャツブラウスとパンツという恰好の瞬を見た校長が、善意だけでできているような笑顔を、少し戸惑わせる。

「瞬さん用に ウェアを用意させていたはずなのですが、お気に召しませんでしたか」
「いえ、そんなことは……」
『全く お気に召しませんでした』と正直に言ってしまえたなら、少しは気持ちが明るくなるだろうか。
校長が瞬へのプレゼントとして用意してくれていたのは、サイズが子供用だったらナターシャが喜んでいたかもしれない、ピンクのひらひらミニスコートだった。

瞬が 校長の誤解を正す気になれなかったのは、自分は男子だと本当のことを打ち明けても、彼がバルゴの瞬のスカウトをやめることはないだろうと思うから。
自分は女性ではないと本当のことを言って、彼に驚かれること、あるいは 信じてもらえないことが嫌だったから。
そして、女性でない人間が なぜナターシャに『マーマ』と呼ばれているのか、その事情を語ることで生じるかもしれない面倒事を回避したいから、だった。

気持ちが重くなる一方の瞬を見兼ねたわけではないだろうが、それまで コート周辺に群がっている たくさんのギャラリーを観察しているようだった氷河が、ふいに、
「主任コーチは体調がすぐれないようだ。瞬の相手は俺がしよう」
と、思いがけない提案をしてくる。
「えっ」
氷河がテニスのルールを覚えたのは、もしかすると 彼がバルゴの瞬とテニスに興じるためだったのだろうか。
そうして、スカウトの目を、バルゴの瞬からアクエリアスの氷河に移すことを、彼は考えたのだろうか。

「瞬、お手合わせ願えるか」
「氷河……」
「ギャラリーを驚かすのは、気がひけるから、本気は出さずに ウォーミングアップ程度で」
スカウトの目が バルゴの瞬の上からアクエリアスの氷河の上に移れば、問題は解決するだろうか。
最悪の場合、校長とテニス協会の面々は、バルゴの瞬とアクエリアスの氷河の両方をテニスの世界に引き入れようとするのではないだろうか。
いったい氷河は何を考えているのかと疑い、瞬は氷河の顔を見上げたのである。

「こちらの方は?」
瞬の隣りに立つ金髪男が何者なのかを、校長が瞬に尋ねてくる。
彼に氷河を何と言って紹介すればいいのかを迷った瞬の代わりに、ナターシャが氷河を校長に紹介してくれた。
「ナターシャのパパダヨー」
「ナターシャちゃんのパパ?」

氷河を“ナターシャのパパ”と認識した校長が、“ナターシャがマーマと呼ぶ人間”と“ナターシャのパパ”の関係をどう解したのか、それを確かめる気力は 瞬の中には生まれてこなかった。
校長がナターシャの前に しゃがみ込み、視線の高さをナターシャのそれと同じにして、
「ナターシャちゃんが可愛いのは、パパとマーマに似たからなんだね」
と、目を細めて言う。
校長の言葉に、ナターシャは嬉しそうな笑顔になった。

彼がしようとしていることは ともかく、校長は 間違いなく“いい人”なのだ。
仕事から退いたとはいえ、世界的に著名な家電メーカーの創業者。当然、日本でも指折りの資産家。
だが、彼には全く驕ったところがなく、平気で 小さな子供と話をするために、子供と同じ高さにまで目線を下げることもする好人物。
彼は、ただひたすら テニスを愛し、日本におけるテニスの隆盛を願っているのだ。
校長が“いい人”だから 瞬は困っているのだが、ともあれ、瞬と“手合せ”ができるというのなら、ナターシャのパパはナターシャのマーマと互角の実力を持っているのかと、彼は氷河の実力に興味を持ったようだった。

そんな夢のようなことがあるのだろうか。
この小さな島国に、こんなにも さりげなく、世界のトップを狙える人材が2人も埋もれていたなどということが?
奇跡の実在を期待する少年のように 瞳を輝かせ、頬を紅潮させた校長は、ナターシャちゃんのパパとマーマのプレイを ぜひ拝見したいと、氷河の提案を 快く受け入れてくれたのだった。

瞬は、それで 少し気が楽になったのである。
スカウト話が どういう方向に転ぶのかについては、予断は許されないが、少なくとも、世界ランキングプレイヤーとプレイせずに済むのなら、今以上に彼を落ち込ませることもないだろう――と。






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