バトルは強敵ほど燃えるが、スポーツは実力伯仲している人と対戦するのが、いちばん楽しい。
アテナの聖闘士同士のこと、ボールが摩擦熱で燃えてしまわないように 加減はしなければならなかったが、それもプレイヤー両者が同様に守らなければならない“ルール”なのだと思えば、そのハンデすらも楽しむことができる。
最初のサーブは瞬だったが、もちろん 世界ランキングプレイヤーとの対戦時のような手加減を、瞬はしなかった。
当然のことながら、それは 常人の渾身のスマッシュの数百倍レベルで強く速いサーブになる。
全く見当違いの場所でラケットを構えていた(というより、ただ持って立っていた)氷河は、無論 瞬の弾丸サーブをあっさり返球してきた。
瞬のサーブ以上の速さと強さで。
瞬も、それを軽々と打ち返す。

ボールを燃やしてしまわないように加減していても、反射神経、体力、運動能力等、すべてが常人のそれを はるかに凌駕している氷河と瞬が打つボールである。
氷河と瞬のゲームの観戦者たちの目は、最初のサーブから、まともにボールを追うことすらできずにいた。
世界ランキングプレイヤーもテニス協会のお偉方(元プロテニスプレイヤーも複数いる)も、ただただ あっけにとられるばかり。
もっとも、彼等が あっけにとられたのは、氷河と瞬の試合内容にではなく、二人の試合内容を正しく把握できない彼等自身に対して――だったろうが。

人間の方がボールより速く動くせいで生じる錯覚に惑わされ、ギャラリーたちは正確にボールの位置を捉えられずにいた。
彼等がボールを視覚で捉えることができるのは、氷河もしくは瞬が ボールを返球できず、コートの外にボールが飛び出た時のみ。
ゲームは進んでいるのだが、審判はポイントをコールすることをしない――コールできずにいた。
が、それも致し方のないことだったろう。
音速を完全に超えているボールを目で追うことはできず、かといって、音で判断していると、現実に はなはだしく遅れてしまうのだ。
そんな状況下で――ゲームが どう進んでいるのかを ほとんど把握できていないのに――ポイントをコールするような無責任なことは、良識とプライドのある審判にはできまい。
そのため、ゲーム開始から30分ほどの時間が経ち、
「7−6で、俺の勝ちだ」
と言って氷河がコートを出た時、ゲーム観戦者たちは初めて――やっと――第1セットの結果を知ることができたのである。

氷河と瞬は 第2セットを始めるつもりはなかった――ゲームを それで終わらせた。
ひたすら呆然としているばかりだった観戦者たちは、ゲームの終了を知らされても、歓声のひとつも上げず、プレイヤーたちに 拍手の一つも送ってこなかった。
人間が 何かに驚くためには、それが驚くべきことだと理解する必要がある。
たった今、自分(たち)の目の前で何が行われたのか、何が起こったのかを理解できていないギャラリーには、自分が驚いていいのかどうかさえ わかっていなかったのだ。
それは 歓声や拍手以前の問題だった。
彼等にできることは、声もなく、ただただ呆然としていることだけだったのだ。

氷河と瞬のゲームのショックから立ち直るのは――もとい、呆然自失状態から抜け出すのは――既に瞬の実力を我が身をもって思い知らされていた世界ランキングプレイヤーが 最も早かった。
呆然自失状態継続中の校長やテニス協会のお偉方に代わって、彼が 氷河と瞬に尋ねてくる。
「あなた方は 本当にプロのテニスプレイヤーではないのか。本当にプロ登録していないのか」
彼が、『あなた方は 本当に人間なのか』と尋ねてこなかったのは、『そうだ』と答えられても『違う』と答えられても、彼には その答えが受け入れられないものだったから――だったかもしれない。
瞬が普通の人間を装って、やわらかい微笑を作る。

「僕は娘の付き添いで来ただけで――僕の本業は医師です」
「医師?」
「ええ」
世界ランキングプレイヤーが 僅かに 意外そうな目をしたのは、(仮に瞬が人間なのだとしたら)他に もっとふさわしい職業があるだろうと思ったからだったに違いない。
彼にとって 意外でない自分の職業が何なのかは知りたくなかったので、瞬は その点について深く追求することはしなかったが。

世界ランキングプレイヤーが、今度は氷河の方に向き直り、微妙に 瞬への質問とは異なる質問を氷河に投げかけてくる。
「では、そちらの彼は どこの団体に在籍しているんだ。国外の?」
氷河ならテニスプレイヤーでも(少なくとも外見は)意外ではないと、彼は思ったのだろうか、
世界ランキングプレイヤーに そう問われた氷河は、世界ランキングプレイヤーに冷ややかな一瞥をくれてから、詰まらなそうな顔で 顎をしゃくった。
「俺の仕事はバーテンダーだ。ずっと立ちっぱなしの仕事をしていると使う筋肉が偏るから、運動不足解消も兼ねて テニスを始めてみようかと思ったんだが――。テニスは 今ひとつ、筋肉への負荷が足りないな。やはり球技より、格闘技の方がいいかもしれん」
「負荷が足りない……?」

30分間 ほとんど休むことなくボールより速く動いていた人間に、退屈そうな顔で そんなことを言われてしまった世界ランキングプレイヤーの気持ち――それなりのレベルにあるアスリートの気持ち――を察して、瞬は少からず 彼に同情した。
それでも、とりあえず、“すべてを丸く収める”ために 氷河は そんなことを言っているのだと(無理に)考えて、瞬は横から口を挟むことはせずにいたのである。
これで 本当に“すべてが丸く収まる”のかという不安の気持ちを、瞬は自分の胸中から消し去ることができずにいたのだが。
瞬の不安を知ってか知らずか、氷河が、ナターシャの両脇に立っている星矢と紫龍に声を掛ける。

「ああ、星矢、紫龍。コートを使っていいぞ」
「氷河……?」
もしかしたら 氷河は、スカウトの目を星矢と紫龍に向けさせるために、彼等をここに呼んでいたのだろうか。
それは 考えようによっては有効な策かもしれないが、それでアテナの聖闘士がスカウトに つきまとわれる事態が消滅するわけではない。
スカウトが目を向ける対象が変わるだけ――最悪の場合、スカウトの対象が 瞬一人から アテナの聖闘士4人になることもあり得るのではないか。
瞬の不安は増大するばかりだったのだが、氷河に水を向けられた星矢と紫龍は、まるで最初から そのつもりだったように、氷河と瞬が使っていたラケットを手にして、コートの中に入っていた。
そうして彼等は、それでなくても呆然自失状態から抜け出しきれていなかったテニス協会のお偉方たちを硬直状態にするような真似を始めてくれたのである。
つまり、彼等は、氷河と瞬以上に人間を超越したプレイを テニス協会のお偉方たちに披露してのけたのだ。

その結果。
テニス協会のお偉方たちは 全員、アクエリアスの氷河のオーロラエクスキューションを まともに受けてしまった“敵”たちのような ありさまになってしまったのである。
それはそうだろう。
サーブを打つ際、ボールを20メートルも上空に投げ、自身も5メートル近くジャンプするプレイヤーや、そのボールをレシーブするために(何の意味があるのか)後方伸身宙返りを2回も行なうテニスプレイヤーに、彼等は これまでの人生で ただの一人も見たことがなかったに違いない。
そもそも テニスのプレイに なぜ体操競技のF難度G難度の技を使う必要があるのかが、テニス協会のお偉方たちには 全くわからなかったろう。
瞬にも わからなかった。

あげく、
「……君たちもプロテニスプレイヤーではないのか?」
という世界ランキングプレイヤーの質問への答えが、
「俺は輸入業が本業で、テニスのラケットを持ったのは、今日が初めてだ」
「俺も同じく。病み上がりのリハビリで、テニスをやってみようかと思ったんだ」
なのだ。
常識人に 何かを理解しろという方が 無理な話である。

「悪いな、紫龍。手加減してもらって」
「感謝の気持ちは、言葉より 行動か物品で示してもらいたいな。手加減するのも難しいんだぞ」
「本気でやったら、ボールが空中で爆発するだろ」
「ははは」
「にしても、やっぱり、身体がなまってるなー……。全然 身体が動かないぜ」
星矢と紫龍の 和やかな(?)やりとりは、ギャラリーの中で唯一、呆然自失状態の外にいた世界ランキングプレイヤーの心身を凍りつかせることになった。

「身体が動かない……だと……」
それは、コーナーぎりぎりを突いてくる 恐ろしく速い(らしい)ボールを打ち返す前に、後方伸身宙返り2回ひねり後方屈身宙返りをする人間が言っていい言葉だろうか。
星矢のぼやきに愕然とし 立ち尽くしていた世界ランキングプレイヤーは、やがて がくりと その場に膝をつき、更には その両手もハードコートの上につくことになった。
そのまま、いつまでも立ち上がらない(立ち上がれない)彼を見て、瞬は蒼白になってしまったのである。
『俺が すべて丸く収めてやる』というのは、アテナの聖闘士をスカウトしようとしている者たちから、その考えを消し去ることではなく、ナターシャを突き飛ばした(実際には、手が ぶつかっただけの)世界ランキングプレイヤーに きっちり仕置きをするという意味だったのだと、今になって瞬は気付いた。






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