「氷河、やりすぎだよ! どうして、こんな……。言ったでしょう。ナターシャちゃんは突き飛ばされたんじゃなく、よそ見した彼の手が ぶつかっただけだって。僕は、彼に『ごめんなさい』を言ってほしかっただけだって……!」 アテナの聖闘士たちの方が はるかに若く見えるが、世界ランキングプレイヤーは おそらく まだ20歳そこそこ。 言ってみれば、子供である。 才能に恵まれ、これまで 挫折らしい挫折を知らずに生きてきたのだろう人間が 生まれて初めて経験する挫折の相手が アテナの聖闘士――というのは、さすがに きつい。 アフリカ象の尻尾の攻撃に立ち向かっていたハエが その本体の大きさに気付いた時、彼は いつか アフリカ象以上に強く大きくなる自分を夢見ることができるだろうか。 その巨大な敵に打ち勝つ未来の自分の姿を思い描くことができるだろうか。 そんな無謀を夢見ることができるのは、アテナの聖闘士くらいのものである。 普通の人間は、そういう時、“諦める”ということを覚える。 あるいは、絶望する。 今、氷河がしたのは、そういうことだった。 氷河は、一人の前途ある人間から 生きる力を、夢見る力を、奪い取ったのだ。 希望の闘士である(はずの)アテナの聖闘士が。 瞬の訴えを聞いた世界ランキングプレイヤーが ぴくりと肩を震わせる。 星矢と紫龍もまた、瞬のその言葉に虚を衝かれた顔になった。 「手がぶつかっただけって、どういうことだよ! 俺は、その男がナターシャを誘拐しようとして、暴力を振るったって聞いたぞ!」 「うむ。ロリコンでサディストの危険な男で、世界ランキングプレイヤーであることを隠れ蓑にし、非道の限りを尽くしている極悪人だから、再起不能にしろと言われた。かといって、聖闘士の力を使うわけにはいかないから、テニスで 上には上がいることを思い知らせて、プレイヤーとして やっていけなくなるくらい、精神的に打ちのめしてやれと――」 サモサタのルキアノス風に言えば、“ハエから象を作る”。 共和政ローマのキケロ風に言えば、“ヒシャクで大波を作る”。 針小棒大も いいところである。 瞬は、氷河の大法螺に呆れ、彼の大人気のなさを責めた。 「氷河、どうして、そんなこと……。これ以上 自信喪失したら、彼は 本当にテニスプレイヤーとしてやっていけなくなっちゃうよ! 彼は まだ若い、普通の――前途ある若者なんだから」 一度『ごめんなさい』を言わなかったことの報いとしては、これは あまりに苛酷に過ぎる罰である。 瞬の非難を、しかし 氷河は受け入れなかった。 氷河にとって、世界ランキングプレイヤーは、一度『ごめんなさい』を言わなかった、無礼なだけの人間ではなかったのだ。 「当然の報いだ。他にいくらでもテニス経験者の候補者はいたのに、こいつは わざわざテニス未経験者の おまえを対戦相手に指名したんだろう。助平心があるからに決まっている!」 「え?」 一瞬、瞬は、氷河が何を言っているのかが わからなかった。 それが、前回の無料体験コース参加時の対戦のことを言っているのだと気付き、慌てて氷河の誤認に修正を入れる。 「対戦相手には、僕から立候補したんだって言ったでしょう。あの時は、ナターシャちゃんが大きな声で応援してくれてて、僕を指名しなきゃならない雰囲気になってたんだよ!」 「その後、お茶に誘われたんだろう」 「無料体験に参加した人たちの ほとんどが参加したアフタヌーンティーだったの! 僕たちのテーブルに同席を求めてきたのは 彼じゃなく 校長先生だったし、彼自身は 僕と同じテーブルには着きたくないみたいだったよ」 「名前と連絡先を聞いてきたと言っていたじゃないか」 「聞いてきたのは、彼じゃなく、テニススクールの事務員さん。テニスウェアの展示即売会の招待状を郵送してもらうのに必要だったの!」 「……」 一事が万事(と、人は考える)。 たった一度の過ちで、営々と築いてきた人生を台無しにする人間もいる。 世界ランキングプレイヤーに関して言えば、たった一度 『ごめんなさい』を言わなかったせいで、彼は 氷河の中に『世界ランキングプレイヤーは、最低最悪の ろくでなし』という先入観を植えつけてしまったのだ。 氷河は その先入観に基づいて、世界ランキングプレイヤーを評価したにすぎない。 ――が。 「し……しかしだな……」 「しかしも お菓子もありません! どうして そんなふうに思い込めるの……!」 「……」 『それは、俺がおまえを愛しているからだ』と言えば、『そんな愛は いりません!』と返されるのが落ちである。 氷河は、氷河にしては賢明に、それ以上『でもでもだって』はしなかった。 脇で 氷河と瞬の痴話喧嘩(漫才)を聞いていた星矢と紫龍が、揃って呆れた顔になる。 「まーた、氷河の勘違いの焼きもちかよ。ナターシャなら ともかく瞬に、誰が 手を出せるっていうんだ。常識で考えろよ」 「焼きもちが愛情表現になると思い込んでいるんだ、氷河は。傍迷惑な」 「まあ、面白がって付き合う俺たちにも、ちょっとは非があるかもしれないけど」 「面白いのだから、仕方があるまい」 それは子供の頃から成長のない無邪気なのか、大人になって持つことができるようになった余裕なのか、はたまた ただの無責任なのだろうか。 星矢と紫龍は、氷河の誤認と その誤認に基づいて為された行き過ぎの事実を知っても、のんきなものである。 しかし、瞬は そうはいかなかった。 そして、瞬以上に常識的な一般人たちには、これは到底 笑って やりすごすことのできる事態ではなかったのである。 どうにかこうにか 意識と思考と声を取り戻すことができたらしい校長が、和やかに(?)談笑を(?)しているアテナの聖闘士たちに、H・G・ウェルズ型火星人を見るような目を向けてくる。 「君たちは いったい何者なんだ。ありえん。ありえない……!」 さすがに その侮辱には耐えられないなかったらしい星矢は、即座に反論に及んだ。 「ありえないのは氷河だけだろ。俺たちを氷河と同列に語るのはやめてくれ」 星矢の憤りは至極尤もだが、一般人の目で見れば、その場にいるアテナの聖闘士たちは 四人が四人共、同質同レベルの“ありえない”ものたちだったろう。 氷河が(アテナの聖闘士の拳で)軽く星矢を殴りつけてから、気の毒な良識人に 極めて妥当な忠告を垂れる。 「日本でのテニス振興を願っているのなら、俺たちには関わらない方がいい。瞬や俺たちがテニスなぞ始めたら、日本の――いや、世界のテニス界の秩序は崩壊する」 氷河の言う通りだろうと、瞬は――瞬も思った。 4大大会で初の日本人優勝者を出すことが悲願の校長も、氷河の忠告に異議を唱えることができずにいる。 「たとえ世界ランキング1位のプレイヤーでも、俺たちに勝てるわけがない。俺たちがテニスを始めたら、そのレベルの違いを見て、テニスに真面目に取り組もうとする者は、この地上に誰一人いなくなるだろう。へたをすると、テニスというスポーツそのものが 地上から消滅する」 「……」 それもまた決して ありえないことではなかった。 いったい どんな人間なら、魚と泳ぎを競おうとするだろう。 どんな人間なら、鳥とハイジャンプを競おうとするのか。 そんな無謀に挑む人間はいない。 校長の願いは、日本のテニス人口を増やし、全体のレベルを上げ、その中から世界のトップレベルで競うことのできるテニスプレイヤーを輩出すること。 たまたま 日本に居住していた宇宙人にグランドスラムを制してもらうことではないのだ。 「君の言う通りだ。私が求めているのは、異次元からやってきた少数のスーパーマンに世界を支配させることではない」 日本の一地方の小さな部品工場を世界的大企業に成長させた立志伝中の人物だけあって、彼は 大きな夢と共に現実的思考と良識を持っている人間だった。 未練のない目をして はっきり そう言ってくれた校長の判断に、瞬は心から感謝したのである。 校長の隣りで、世界ランキングプレイヤーが 再び生きる希望を取り戻した人間のように 泣き笑いをしている。 それが計画通りなのか、“棚から ぼた餅”なのかの判別は難しかったが、確かに氷河は その宣言通りに“すべてを丸く収めて”みせたのだった。 |