「……何だ、今のは……」
これは、どういうことなのか。
瞬が女性ではなかった――ように思える。
瞬に触れた氷河の身体は、そう感じていた。

瞬が女性ではない――ということがあり得るだろうか。
それは あり得なかった。
初めてドービニェ家のサロンで出会った瞬――エスメラルダ――は、間違いなく女性だった。
助平男と思われるかもしれないと危惧するほど、氷河は彼女の胸元を観察したのだ。
しかし、どう考えても、先ほどの瞬の身体は女性のそれではなかった。
日本神話風に言うなら、瞬には、女神イザナミの“成り成りて、成り合わざるところ”がなかった――男神イザナギの“成り成りて、成り余れるところ”があった――のだ。

瞬は逃げて行ってしまい、それを確かめることはできない。
瞬が この場に留まっていたとしても、そもそも どうやって それを確かめるというのか。
いったい何がどうなっているのか。
氷河には、この現実、この事情が、全くわからなかった。
わからなかったのだが。
これは、わからないからといって、考えることを放棄していいようなことではない。
政略結婚、ヴェルソー侯爵家の家名の存続、貴族の尊厳、カミュへの恩返し。
そういった事柄は ともかく、瞬が何者であるのかということは、既に氷河の人生に直結する重要問題になっていた。
皮肉なことに、瞬が女性ではないかもしれないという可能性に気付くことで、氷河は 自分が瞬に恋をしていることを明瞭に自覚することになってしまったのである。


考えて考えて――というより、悩みに悩んで――氷河が辿り着いた結論。
それは、瞬が結婚を嫌がっていたのは、それが愛のない政略結婚だからではなく、差別への憤りのためでもなく――無論、そのせいもあっただろうが、それ以前。
つまり、瞬が結婚できない身体だったからなのではないかというものだった。
つややかな黒髪と黒い瞳を持つ女性でないと、日本では妻として望まれることはない。
瞬は そう言っていたが、現実問題として、それは あり得ないことなのだ。

髪や瞳の色がどうであれ、瞬は美しい。
薔薇の花より高貴で、白百合の花より清らか。桜の花より爽やかで、撫子の花より 慎ましく、ジャガイモの花より可憐。
聡明で機転が利き、現実社会を乗り切る対応力も事務能力もある。
優しい心を持ち、弁舌にも長け、立ち居振る舞いには品がある。
その上、巨額の持参金付き。
そんな女性を妻に望む男が日本に一人もいなかったということが あるだろうか。
あるはずがない。
おそらく 縁談は降るようにあったのだ。
しかし 瞬は 人の妻になることのできない身体で、だから日本人を未開の野蛮人と蔑むフランスに逃げてきた。
英国でもオーストリアでもなく、フランスなら安全だろうと考えて、瞬は、この国粋主義の国に逃げてきたのだ。
結局、どこよりも安全なはずのフランスでも結婚話は持ち上がってしまったが、それは 瞬の美しさとバックを考えれば 致し方のないこと。

つまり、そういうことだったのだ。
そうとしか考えられない。
そして、そうと わかれば、氷河が すべきことは ただ一つだった。
氷河は、瞬がヴェルソー侯爵家に もたらす巨額の持参金を欲していたのではない。
瞬の美しさを好ましいとは思っていたが、その肉体的魅力に惹かれているわけでもない。
そうではなく――氷河が瞬を愛しているのは、氷河が恋したのは、“瞬”という人間を“瞬”という人間たらしめている すべてのことだった。
氷河が愛しているのは、心惹かれたのは、“瞬”という一人の人間だったのだ。

それでも3日 悩んで――瞬のこと、自分のこと、二人の先々のことを慎重に考えて――そうして、4日目の朝。
氷河は、意を決して、瞬の滞在しているオテル・リッツに向かったのである。
面会を拒否されても、氷河は瞬の部屋に押し入るつもりでいたのだが、この3日間で、瞬も覚悟を決めることができていたらしい。
オテル・リッツの2階にあるスイート・アンペリアルに、氷河は極めて速やかに入ることができた。
王の支配も皇帝の支配も拒んだフランスで、部屋の内装はロココ調。
ひどく矛盾した話だったが、氷河は、今日は そのことについては 皮肉の一つも言う気にはなれなかった。
そんなことより もっとずっと大切なことを瞬に告げるために、氷河は ここにやってきたのだから。

何を言われるのかは わからないが、何を言われても取り乱すまい。
そう決意しているらしい瞬は、ロココ様式のシェーズ・ロングソファに座り、その顔を俯かせていた。
そんな瞬を少しでも早く安心させたくて、氷河は挨拶を省略し、本題に入ったのである。
「おまえが結婚を嫌がっていたのは、おまえが雌雄同体――ヘルマプロディトスだったからか」
「……え?」
その言葉に弾かれたように、瞬が俯かせていた顔を上げる。
憂いを帯びてはいたが、瞬は今日も可愛らしい。
それが、氷河は嬉しかった。

可憐な花のように美しい瞬。
雌雄モザイク、性的二形――被子植物のほとんどは雌雄同株である。薔薇の花もジャガイモの花も。
瞬は本当に可憐な花だったのだ。
「素晴らしい、神秘の性。おまえは それで故国にいられなくなったのか」
「そ……そうです……」
その通りだと、言葉では答えながら、瞬の瞳は戸惑いに揺れている。
まるで、氷河が何を言っているのかが解せないとでも言うように。
だが、ともかく 瞬は、氷河の言を否定しなかった。
少年でありながら少女、少女でありながら少年。
やはり瞬は そうだったらしい。
それゆえ瞬は、我が身を結婚という制度の外に置こうとしていたらしい。
その事実を余人に知られることを恐れて。

しかし、それは氷河にとって、恋の障害にも 結婚の障害にもなり得ないものだった。
だから、氷河は、瞬に申し込んだのである。
「瞬。俺と結婚してくれ。俺は、こんな素晴らしい妻を持てる男になりたい」
と。
『おまえが どんな人間であっても、俺は受け入れる』と言うことをしなかったのは、その言葉を『おまえが雌雄同体という奇形でも許容する』という意味に解されることを避けるため。
『雌雄同体であることを望む』という言い方をした方が、瞬を傷付けずに済むだろうと考えたから。
氷河は、とにかく、瞬が欲しかったのだ。
瞬を手に入れるためになら、氷河は どんなことでもするつもりだった。

氷河の求婚の言葉を聞いた瞬が――瞬は、暫時 呆然としたようだった。
その次に、瞬の顔に現れるものは 当然 喜びの笑顔だろうという氷河の推測は、見事に外れた。
瞬の瞳に、見る間に涙が盛り上がってくる。
「……瞬?」
そして、瞬は、そこは瞬の部屋だというのに、求婚者をその場に残し、またしても 氷河の前から逃げていってしまったのである。


氷河は、自分は瞬に好意を抱かれていると思っていた。
でなければ、政略結婚から逃げようとしている瞬が、毎日 ヴェルソー侯爵家の子息(ということになっている男)の誘いに応じてくれていたはずがない。
没落貴族の一族の氷河には、大金持ちの令嬢である瞬を喜ばせるような高価な贈り物はできなかったし、性格的に 女性の心を高揚させられるような気の利いた愛の言葉も語れない。
それでも 瞬は、毎日 氷河の誘いに応じてくれていた。
人の噂にされることを恐れて外出を避けるようになってからは、自発的に氷河の許を訪問してくれていた。

それが好意でなくて何だというのか。
恋でなくて何だというのか。
1億歩 譲って、その行為が恋でなかったとしても、少なくとも 瞬は氷河を嫌っていなかったはず。
だから――真面目なプロポーズを、瞬に涙で拒絶されることがあるなどとは、氷河は考えてもいなかったのである。

その日、瞬は、氷河を残して飛び出ていったホテルの部屋に戻ってきてくれなかった――氷河が待っている間は戻ってこなかった。
翌日以降は、ホテルを訪ねていっても、居留守を使われた。
もちろん、瞬の方からヴェルソー侯爵家の館を訪ねてきてくれることもなく――それから1週間、氷河は瞬に会うことが叶わなかったのである。






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