なぜ 瞬は――自分を嫌っていないはずの瞬は――自分のプロポーズを喜んでくれなかったのか。 氷河が その理由を知ることになったのは、瞬へのプロポーズの日から8日後の午後。 ドレス姿に戻った瞬が、ヴェルソー侯爵家の館を訪ねてきてくれた時だった。 ドレスを身にまとった瞬――エスメラルダ――には、強面のボディガード(というより、用心棒)が一人 付き従っていて、その男は、最初に氷河と顔を会わせた時から、氷河を嫌悪し憎んでいるのが明白。 使用人の分際で、主人の友人に ここまで あからさまな敵意を剥き出しにしてみせるとは――と、氷河を不快な気分にしてくれた。 だが、それより何より瞬である。 1週間ぶりに会う瞬。 瞬は、相変わらず 可愛らしかったが、ドレスを着ているせいか、これまでの瞬とは印象が違う。 敵意を剥き出しにした用心棒の牽制のせいではなく――氷河は なぜか瞬に対して 他人行儀になることを余儀なくされてしまったのだった。 「ドレスを着ている時は、エスメラルダと呼んだ方がいいのか? 瞬。どうして、おまえは――」 こんなにも おまえに恋い焦がれている男から逃げて行ってしまったのだ――と、氷河は彼女に尋ねることができなかったのである。 身にまとっているドレスのせいなのだろうか。 今 氷河の目の前にいる瞬は、氷河が恋した瞬ではないように、氷河には感じられたのだ。 そんなはずはないのに。 たった1週間で、瞬が瞬でない人間になってしまうはずがないというのに。 だが――。 「瞬……ではない……?」 そんなことがあるはずがないのに――これほど特異な美貌の持ち主が、この世界に二人も存在するわけがないのに、氷河が辿り着いた結論は それだった。 瞬の顔をした この女性は瞬ではない――というのが。 ドレス姿の女性が、そんな氷河に軽く頷く。 そして、瞬ではない瞬は、静かに言葉を紡ぎ出した。 「ええ。私は瞬ちゃ――瞬ではありません。私はエスメラルダ。神秘の性の持ち主でもなく、男の子でもなく、ごく普通の女です。私と瞬は別々の人間です」 「――」 顔立ちは同じなのに、印象が違う。 声も少し違う。 よく見れば、全く似ていない。 氷河が恋した瞬は、もっと――もっと美しかったとまでは言わないが、もっと生気に満ち、もっと明るく、もっと健やかで、もっと――もっと輝いていたのだ。 少なくとも、氷河の目には そう見えていた。 だが、では、いったい これはどういうことなのか。 何がどうなっているのか。 瞬が城戸家の人間であることは、間違いのない事実のはずである。 オテル・リッツのスイート・アンペリアルに数ヶ月単位で宿泊することなど、一国の君主か よほどの富豪でなければ、まず不可能。 そして、瞬は確かに あの部屋にいたのだ。 混乱する氷河に その疑念への答えを与えてくれたのは、エスメラルダではなく、彼女の用心棒(と、氷河が思った男)だった。 客間のアームチェアにエスメラルダを座らせ、彼女を庇うように、黒髪の用心棒が氷河の前に立ちふさがる。 彼は、見るからに不遜な目と不遜な態度で、聞くまでもなく不快な声と不快な口調で、ドレスを着た瞬(にそっくりな顔を持つ女性)が何者であるのかを、氷河に教えてくれた。 「エスメラルダは城戸家とは全く無関係の人間だ。エスメラルダと瞬が似ているのは、全くの偶然。エスメラルダは、俺が瞬と見間違えたのが きっかけで知り合った、城戸家とは縁も ゆかりもない赤の他人だ」 ということは、日本の大金持ちであるところの城戸家の令嬢は瞬で、その瞬は男子だということになる。 令嬢が男子。 何がどうなれば そんな事態が現出し得るのか――を尋ねる前に、氷河は、柄の悪い黒髪の用心棒に、 「貴様は誰だ」 と、問い質していた。 城戸家の令嬢にそっくりな赤の他人であるエスメラルダと共にヴェルソー侯爵家の館を訪ねてきて、城戸家の令嬢ということになっている瞬を、当たり前のように呼び捨てにする傍若無人な若い男。 日本の富の10分の1を掌握しているという城戸家の人間を呼び捨てにできる男は、日本の皇帝なのか、それとも軍部の大立者なのか。 だが、そんな大物が このフランスにやってきているという話を、氷河は聞いていない。 では いったい誰なら? という、氷河の無言の問いかけに、柄の悪い用心棒は、なんと、 「俺は瞬の兄だ」 という答えを返してきた。 「瞬の兄……だと?」 瞬の血縁、しかも年長者なら、確かに、城戸家の令嬢であるところの瞬を呼び捨てにする権利を有しているだろう。 しかし、この傲岸不遜な男は、全く瞬に似ていない。 城戸家とは縁も ゆかりもない赤の他人だというエスメラルダが、これほど瞬に似ているというのに、自身を瞬の兄だと言う男は、瞬の1億分の1の可愛らしさも持っていなかった。 当然、 「違うのは、父か、母か」 という、新たな疑問が氷河の中に湧いてくる。 氷河に そう問われると、黒髪の自称 瞬の兄は、吐き出すように――もとい、“ように”ではなく、彼は正しく言葉を吐き出した。 「詰まらん男だな。言うと思ったことを言う。同父母だ。俺の父は城戸の家の現当主。母は城戸の妾だった。……瞬は、こんな男のために 泣き続けているのか。いったい 瞬はこんな詰まらん男のどこがよくて――」 氷河は、自称 瞬の兄に、言いたいことが 色々あった――たくさんあった。 だが、ここで何事かを口にしてしまうと、また『詰まらん』と唾棄されるだけのような気がして、だから 氷河は言いたいことを口にするのを かろうじて 堪えたのである。 そんなことより、自称 瞬の兄が洩らした『瞬が泣き続けている』という言葉の方が、氷河は はるかに気になった。 「俺が生まれた時――今もだが、城戸の正妻には子供がいなかった。黒い髪と瞳を持っていた俺は城戸の本宅に引き取られ、正妻の子として育てられた。俺の実母は、瞬を身ごもった時、また子を奪われるのを恐れて、生まれた瞬を娘だったと、城戸に嘘の報告をしたんだ。瞬は、城戸の一族として世間に出すには 髪の色も瞳の色も薄すぎたから、あの糞親父は 俺たちの生母の言葉を ろくに確かめもせず、瞬を実母の許に残した。結局、その6年後、母は病で死に、瞬も妾腹の子として 城戸の家に引き取られた。日本は、男子しか家を継げない――男子なら、継ぐことができる。だが 瞬は 城戸の相続問題に関わりたくないので、男子だということは城戸に言わずにいてくれと、俺に言った。俺は俺で城戸の家から解放されたかったんだが、面倒事を瞬に押しつけることもできず、瞬の望む通りにした。しかし、瞬が結婚できる歳になると、持参金目当ての縁談が次から次に瞬の許に舞い込んでくるようになった。無論、妾腹だからとか、容姿に難があるからとか、あれこれ理由をつけて断わり続けていたんだが……」 断り続けるにも限度があった――ということなのか。 氷河は そう察したのだが、事情は そう単純なものでもなかったようだった。 「持参金も何もいらない、身一つで来てくれるだけでいいという申し込みが来た時点で、瞬が嘘をついていることに耐えられなくなった」 「……」 |