『買いかぶらないでください。僕も嘘をついたことはあります』
『本当か。どんな』
『どんな……って、か弱くて控えめで淑やかな女性の振りをしていることは、ひどい嘘でしょう?』

氷河は、以前、瞬と交わした会話を思い出した。
あれは、そういうことだったのだ。

“女 三界に家なし”の男尊女卑の国で、自身の性を女性と偽っていることは、瞬に不利益しか もたらさない。
そういう意味で、瞬は、自分の嘘が人に迷惑をかけるものだとは思っていなかったのだろう。
だが、妾腹であることは構わない、持参金も不要、身一つで来てほしいという、損得勘定抜きの(愛情か恋情だけから成る)求婚を受けた時、瞬は自分の嘘が 人を傷付けるものだったことに気付いたのだ。
当然、求婚者に本当のことを言って 更に傷付けるわけにはいかない。
だから――だから 瞬は、この国に逃げてくるしかなかったのだ。

そうして逃げてきた この国で、今度は瞬の前に『神秘の性の持ち主だからこそ、妻に迎えたい』などと言い出す阿呆な男が現れたのである。
瞬が 自分の人生に悲観しても、それは致し方のないことだろう。
か弱く大人しい女性ではないが、可愛らしく 機転の利く瞬の様子を思い浮かべ、嘘をつけず優しい心を持つ瞬の瞳が涙に濡れている様を思って、氷河は自身の軽率を深く悔やんだ。
もちろん 深く悔やんだのだが。

氷河は、男子である瞬を女性と誤解して、瞬に求婚したわけではない。
男子である瞬を、雌雄同体――男子でも女子でもある神秘の性の持ち主であると誤認して、瞬に求婚した(ことになっている)のだ。
瞬は 氷河に本当のことを言い、『ふざけるな! 僕は男だ!』と一喝して、阿呆な男の求婚を退ければいいではないか。
日本の名のある家同士の付き合いや結びつきが どんなものなのかは知らないが、現時点でヴェルソー侯爵家と城戸家の間には どんな利害関係も しがらみもなく、氷河と瞬の つながりが消滅しても、城戸家には どんな不都合も不利益も生じないのだ。
瞬は 氷河に遠慮する必要はない。
瞬は、阿呆な男を罵倒して、それで すべてを終わらせてしまえばいいのだ。

だというのに。
『瞬は、こんな男のために 泣き続けているのか』と、自称 瞬の兄は言っていた。
いったい瞬の涙は、何のために――誰のために、流されているのだろう――?

可愛らしい瞬。
澄んだ瞳の瞬。
優しい心を持ち、嘘をつけない瞬。
縁も ゆかりもない没落貴族の尊厳を守るために、真剣に打開策を考えてくれた瞬。
氷河の誘いに 毎日 嬉しそうについてきてくれた瞬。
瞬は――嘘をつき慣れ、『カミュへの恩返しをしたい』と 言うことだけは立派だが 政略結婚は拒否し、その代替案を考えるでもなく、どんな具体的な行動にも出ようとしない ろくでなしに、それでも やはり好意を抱いてくれていたのではないだろうか。
でなければ、あの賢明で聡明な瞬が、阿呆な求婚をした阿呆な男のために泣き続けていることに 説明がつかない。

自分に都合よく考えすぎているという気はするのだが、氷河には どうしても それ以外の考えが思いつかなかった。
ろくでなしで 行動力ゼロ、恩知らずで嘘つきの男を見詰める瞬の瞳は、いつも優しく温かだった――。

「あの……」
氷河が いつまでも無言で 自分に都合のいい考えに耽っていることに、瞬に似た女性は不安を覚えたらしい。
エスメラルダが 自称 瞬の兄の陰から、氷河に話しかけてくる。
「瞬ちゃんに似ている私という存在のことは、あまり大っぴらにできないので、私はホテルの部屋に一輝と一緒にいることが多くて――瞬ちゃんは いつも気を利かせて 一人で街に出ていってくれていたんです。瞬ちゃんは異国に来て、心細くしていた時に、あなたに優しくしてもらえたのが とても嬉しかったんだと思います。あなたと知り合ってから、瞬ちゃんは いつも楽しそうでした」
瞬の系統の顔立ちの人は、誰も優しい心を持っているらしい。
エスメラルダの言葉は、自分に都合がよすぎる(と思われた)氷河の考えを裏付けてくれるものだった。

「瞬ちゃんは あなたが大好きで、ずっと お友だちでいたいと思っていたんです。でも、神秘の性の持ち主だと誤解されて、誤解された途端に求婚されてしまった。それで瞬ちゃんは、普通の男の子だと、あなたに好意を持ってもらえないのだと落ち込んでしまったんです」
「いや、それは――」
「氷河さんは、瞬ちゃんを傷付けないために、わざと そう言ってくださったに決まっていると、私は瞬ちゃんに言ったのですけど……」
エスメラルダは 瞬と違って 本当に控えめで大人しい女性らしいが、瞬同様、人の心を思い遣ることのできる優しさと聡明を持ち合わせた女性でもあるようだった。
そういう人間でなければ、『瞬ちゃんを傷付けないために、わざと そう言ってくださった』などという考えに及ぶことはないだろう。

氷河は彼女に好意を抱いた。
瞬の兄を自称する傍若無人な男には もったいないほどの女性だと思う。
実の弟に そっくりな女性に恋する男というのは、かなり問題があるような気もしたが、それでも瞬のため、エスメラルダのため、瞬の自称兄は わざわざヴェルソー侯爵家の館まで足を運んでくれたのだ。
この男の立場では、このまま すべてを放っておいて、瞬が阿呆な男を忘れる時を待てばいいだけだというのに。

「もちろんです。そういう言い方をされれば、瞬は引け目を感じず、俺と一緒にいてくれるようになると思ったんです」
優しい女性には、丁寧語。
氷河の返答を聞いて、エスメラルダは ほっとしたような笑顔を浮かべた。
「ああ、やっぱり……。よかった。氷河さん、どうぞ、瞬ちゃんに 変わらぬ友情を示してあげてください」
心優しいエスメラルダは 色々 誤解しているようだったが、人が幸せに生きていくためには、時には嘘が必要なのだということを知っている氷河は、瞬と同じ優しい心を持つ女性に、極めて真面目な顔で頷いたのである。






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