最初の5年は長いようで短く、短いようで長かった。 しかし、その後の5年間は異様に短かった――と、瞬は(もちろん主観で)思ったのである。 「やっと、貴様の仲間たちの姿を 貴様に見せられるようになったぞ。貴様の仲間たちも しぶとかったな」 ある時、タルタロスにやってきた死を司る神が忌々しそうに――それでいて 嬉しそうに――そう言った時、瞬は、もう10年が経ったのかと、時の流れの速さに驚いた。 “もう10年”と感じる自分を奇異には思わなかったし、実際に10年の時が流れたのだろうと、その現実を受け入れることも、瞬には容易にできた――のだが。 『やっと、貴様の仲間たちの姿を 貴様に見せられるようになった』とは、どういうことなのか。 瞬は、ゆるゆると 視線を銀色の神の方に巡らせた。 急いだところで、この牢獄の時の流れは速くも遅くもならない。 そこには、ただ永劫の時が横たわっているだけなのだ。 「この10年間、これでも 俺たちは 俺たちなりに、貴様に気を遣ってやっていたんだ。貴様を、仲間を信じたまま、幸福なままで 死なせてやろうとな。だが、貴様を この苦しみから解放するには、仲間たちの裏切りを 貴様に知らせるのが最善にして最短の道だと、俺たちは気付いた」 親切顔で、だが、意地の悪い目をしてタナトスが言葉を吐き続けている。 そうして、タナトスが瞬の前に示した“仲間の裏切り”。 それは、ひどく のどかで平和な光景。 凡庸といっていいほど 日常的で刺激のない光景だった。 氷河が小さな女の子と遊んでいた。 大人になっているのに、それが氷河だとわかるのは、少年の頃と変わらず、“表情豊か”とは言い難い彼の面差し、“冷ややか”としか表しようのない彼の眼差しのせいだったろう。 だが、瞬は知っていた。 その青い瞳の奥には温かい――熱いといっていいほどの情熱が隠されていることを。 女の子は楽しそうで、氷河の無表情を恐がっていない。 彼女は、自分が氷河に愛されていることを信じているのだ。 だから、彼女は氷河を恐れていない。 あの年頃の僕は、まだ氷河の冷ややかな感触の向こう側にある本質に気付いていなかったのに――と、瞬は彼女の聡さを羨んだ。 あの歳で、氷河の優しさに気付いているということは、彼女が それが可能なほど氷河と親密な時を過ごすことができているから――としか考えられなかった。 形ばかりの浅い親交、短い時間では、人は 氷河の優しさに気付くことはできない。 これほど氷河と親しげな あの少女は いったい誰なのか――氷河の何なのか。 瞬は その疑念を言葉にして問うたわけではなかったのだが、瞬が問うまでもなく、タナトスが少女の正体を瞬に教えてくれた。 「キグナスは世界が平和になったので、女と番って、子供を儲けたのだ」 と。 自分が 氷河に愛されていることを疑っていない、小さな可愛らしい少女。 それが氷河の娘だと、タナトスは瞬に告げた。 彼の言葉に、自分が驚いたのか、驚かなかったのか。 そんなことさえ、瞬には わからなかった。 そこは 日本の――おそらく晩春か初夏の晴れた空の下。 氷河と遊んでいた少女が 突然 駆け出し、少女の向かった方向に、氷河が 優しい視線を投げる――誰が見ても優しく温かいことがわかる視線を投げる。 小さな女の子と遊んでいた氷河が、誰かに優しい眼差しを向けている。 その視線の先に 氷河の愛する人がいるのだということが、瞬には すぐにわかった――容易に察せられた。 こんなに わかりやすく幸せな氷河の姿を見ることがあろうとは。 瞬は、呆然としたのである。 「よかったな。おまえの仲間たちは皆、幸福だ。おまえなしでも」 タナトスが 嘲るように言う。 彼が、言葉とは裏腹に、アンドロメダ座の聖闘士の失望と消沈を期待していることが、瞬には わかっていたのだが――。 タナトスの言う通り、『よかった』と瞬は思った。 その気持ちは嘘ではない。 失われた仲間の身を案じ、憂いに沈んでいる氷河の姿を見せられるより、幸福な大人になった氷河の姿を見ている方が、どれほど心が安らぐことか。 だが、寂しい。 よかった。 でも、寂しい。 そんなことがあってはならないのに、瞬の瞳からは ぽろぽろと涙の滴が零れ落ち始めていた。 10年振りに流す涙。 一人きりで この牢獄に閉じ込められている自分のためには一度も生まれてこなかった涙が、なぜ 幸福な仲間のために 瞳から あふれ出てくるのか。 瞬の涙を認めたヒュプノスが、涙の主の心を探るような視線を 瞬の上に落としてくる。 「憎いか? おまえの仲間たちは皆、幸福なのだ。理不尽にも、おまえだけが罪と罰を負わされ、こんなに冷たい場所に閉じ込められて、孤独に震えている――」 憎いだろう。 妬ましいだろう。 同じ戦いを戦ってきた仲間同士だというのに、今ある境遇が あまりに違いすぎる。 ヒュプノスは、更に言葉を重ねて尋ねることはせず、 「諦めて、死ぬ気になったか?」 と、楽しそうに瞬に尋ねてきたのはタナトスの方だった。 「あるいは――おまえが キグナスを倒すと約束したら、ここから生きたまま解放してやってもいい」 と、ヒュプノスが提案してくる。 「おまえの心が憎しみのために汚れ淀んだら、おまえからは罰する価値が失われる。普通の人間のように汚れたら、おまえは自由になれるんだ」 金色の眠りの神は、憐れむように、瞬に そう告げた。 金銀二柱の神は、10年間、この時を待っていたのだろうか。 永遠の命を持つ神の10年と人間の10年とでは、(主観的な)長さは全く異なるのだろうが、それにしても、彼等は たかが一人の人間のために、10年の時を待つということをしたのだ。 そんな彼等に 彼等の期待する答えを返せないことを、瞬は少し――本当に少しだけ――申し訳なく思った。 「氷河が幸せでいるなら、僕は嬉しい」 それまで楽しそうだったタナトスが、瞬の答えを聞いた途端、その眉根と口元と不機嫌そうに引きつらせる。 「綺麗事を言うな」 彼なら そう言うだろうと察していた通りの言葉を口にしたタナトスに、瞬は我知らず微笑していた。 こんな ささやかな推察でも、的中すると嬉しい。 「綺麗事なんかじゃない。あなた方は、僕を あまりに長く 一人で置きすぎたの。人の幸福を羨んだり、科される罰を不公平だと思ったり、それを理不尽だと憤ったりするには、あまりに時間が経ちすぎて、今の僕には そんな気力が湧いてこない。氷河が今 幸せでいてくれるなら、僕は嬉しい」 「……」 二柱の神が、珍しく二柱 揃って、何か言いたげに唇の端を蠢かす。 しかし、彼等は結局 何も言わなかった。 「僕は疲れたの。孤独は人の心を消耗させる……」 瞬の あまりの覇気のなさに、二柱の神は いじめる張り合いが失せたのだろうか。 それでもタナトスは瞬に何か毒づこうとしたらしいのだが、ヒュプノスは 自分と同じ顔の兄弟神を制し、二人は そのまま――沈黙を保ったまま、タルタロスから消えてしまった。 思惑が外れた彼等は、もしかしたら二度と この囚人の許にやってくることはないのかもしれないと、瞬は ぼんやり思ったのである。 |