瞬は本当に嬉しかった。
あの小さな少女の幸福そうな笑顔が、氷河が今 どれほど幸福でいるのかを、間接的に 明瞭に 瞬に教えてくれた。
氷河は無事で――戦いに命を散らせることなく、失われた仲間のために心に傷を負うこともなく、幸福な大人になった――幸福な人間でいてくれるのだ。
これほど嬉しく、心安らぐことはない。
そう思う瞬の気持ちは、真実のものだった。

だというのに、涙が止まらない。
ヒュプノスの姿もタナトスの姿も消えたタルタロスの薄闇の中で、瞬の涙は止まらなかった。
「氷河は、僕がいなくても幸せになれたんだ……」
薄闇に向かって、独り言を声にしてみる。
灰色の薄闇が、瞬の声で、『よかったね』と答えを返してくれた。
うん、よかった。
闇に頷いて――そして、瞬は、このタルタロスに来て初めて、自分が死んでもいいような気持ちになったのである。

心残りは、もうない。
憂いも消えてしまった。
だから、瞬は、その場に身体を横たえ目を閉じたのである。
自分が 氷河の身を――というより、彼の心を――案じていたのは、自分の中にうぬぼれがあったからだったのかもしれないと、自嘲気味に思う。
自分が死んでしまったら、きっと氷河は幸せになれないと、自分の心のどこかに うぬぼれがあったからだったのだと。
『俺は、おまえが生きて存在してくれるだけで 幸せだ。俺は、おまえがいないと不幸になる』
氷河はいつも そう言っていたから。

「僕……死んでもいいんだ……」
もう一度、タルタロスの薄闇に呟いてみる。
薄闇が頷いてくれたように感じたのは、その薄闇が瞬の心でできたものだったからなのか。
誰からも必要とされていない時、人は安らかな気持ちで死んでいくことができるのだと、瞬は静かな心で思った。
喜ぶでも悲しむでもなく、静かな心で、瞬は そう思った。



氷河たちが、神々の牢獄タルタロスに飛び込んできたのは、それから まもなく。
その“まもなく”が、瞬には百年にも千年にも感じられたのだが、実際には それは百年どころか、もししたら10分にも満たない短い時間だったのかもしれない。

タルタロスの薄闇の中で ぼんやりと死を待っていた瞬の前に現れた氷河は、ほとんど飛びつくようにして 力の抜けた瞬の身体を抱きしめ、
「遅くなって、すまん」
と、瞬に詫びてきた。
そして、氷河は、
「すまん。おまえが どこに 囚われているのか、その場所を突きとめるのに5日もかかってしまったんだ」
と、言葉を重ねてきたのだ。
彼は、瞬が見知っている十代の氷河の姿をしていた。






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