アフロディーテは、自らの名誉挽回と失地回復のことしか頭にないようだった。 そのために彼が選んだ対応策は、どう考えても間違っていると思うのだが、今の彼は青銅聖闘士ごときの主張には耳を傾けてくれそうにない。 彼を説得できるのは、神か、最低でも彼と同じステータスの人間――つまり黄金聖闘士のみだろう。 そう考えた瞬は、双魚宮を出て、十二宮を結ぶ石の階段を てくてく歩き、とりあえず 処女宮に向かってみたのである。 そこが無人だったなら双児宮にまで足をのばすつもりだったのだが、幸い 瞬は処女宮で目的の黄金聖闘士二人を掴まえることができた。 つまり、アフロディーテが瞬に『倒せ』と命じた二人の黄金聖闘士、最強のイメージ戦略に最も成功している二人の黄金聖闘士であるところの、乙女座バルゴのシャカと双子座ジェミニのサガを。 十二宮の戦いで命を落とし、更に嘆きの壁で死んだはずのサガが なぜここにいるのかということは、既にどうでもいいことである。 嘆きの壁で死んだ(だけの)シャカが なぜここにいるのかということは、更に どうでもいい。 二人が今 生きて ここにいることを奇異に思ったり、その理由を探ろうとするのはいけないことなのだ。 瞬を次代の乙女座の黄金聖闘士に指名してから こっち、瞬が窮地に陥るたび、シャカは涅槃から現世に出張してくるようになっていた。 サガが処女宮にいるのも、瞬の窮状を察したシャカの手回しのいい差配だろう。 そんなことは、この聖域においては、もはや驚くべきことでも何でもなくなっていた。 沙羅双樹の花園は、今日も よい香りで満ちている。 瞬は そこで、魚座の黄金聖闘士の名誉回復のために最強の聖闘士になるよう求められたこと、そのために双子座の黄金聖闘士と乙女座の黄金聖闘士と戦って倒すよう命じられたことを、二人に訴えた。 サガもシャカも、アフロディーテ以上に浮世離れしたキャラクター。 まともなアドバイスをもらえるのかどうか、瞬は少なからず不安だったのだが、瞬の案に相違して、サガは意外や常識的。そして、瞬に対して、意外や同情的だった。 「君も面倒な奴に関わってしまったな。アフロディーテは、君に敗北してもなお、『力こそ正義』の考えから卒業できずにいる男で……」 アフロディーテにその信念を植え付けたことに、サガは責任を感じているようだった。 そして、アフロディーテが言っていた通り、彼は瞬に『ごめんなさい』も『申し訳ない』も『すみませんでした』も言わなかった。 言われないことに、だが、瞬は 安堵してしまったのである。 確かに、黄金聖闘士に『ごめんなさい』を言われても困る。 「まあ、事実、アフロディーテは、アンドロメダに“力”で負けて死んだわけですからね。アフロディーテにとっては、『アンドロメダ座の聖闘士 = 強い = 正義』なのでしょう。君が 大きい顔をして威張っていていいという考えは、ある意味 当然のこと」 シャカも、自分の後継者には ある程度 尊大に振舞ってほしいと思っていたのだろうか。 思わず『ご期待に沿えなくて、すみません』と言いそうになり、だが、瞬は 直前で思いとどまった。 そんなことをしてしまったら、一層 シャカの期待を裏切ることになる。 瞬の一瞬の逡巡と判断に、シャカは気付いていない振りをしてくれた。 「敗北した自分を 悪と認めないあたりが、アフロディーテらしいな」 アフロディーテがアフロディーテらしく振舞っていることまでは、瞬も非難するつもりはなかった。 が。 「力を伴わない正義もあります」 瞬が切なげに言うと、シャカは 微かに苦味を帯びた眼差しで、瞬を見詰め返してきた。 「難しいところだ。アテナの聖闘士たちも、結局、力で正義を示している」 「難しくなんかありません。正義か正義でないかという問題と、強いか強くないかという問題は、全く別のことなんです。関連づけて考えることが間違っている」 と、瞬がアフロディーテにはっきり言えないのは、瞬の中にアフロディーテを倒してしまったという負い目があるから。 瞬の気弱な正義に、サガとシャカが 少々 呆れているような苦笑を浮かべる。 「助けてください。僕は、お二人と戦うようなことはしたくありません。どうして そんなことをしなければならないんですか。今は、地上の平和を守るという同じ目的のために共に戦う同志なのに……!」 ここで『戦うも何も、我々は既に死んでいる』と応じるのは、聖闘士の世界では御法度である。 この世界のルールを知り尽くしているサガは、無論、そんな危険な指摘はしなかった。 もとい、彼はもっと危険な質問を瞬に投げかけてきた。 すなわち、 「ところで、君は、我々と戦って、我々に勝てる自信があるのか」 という質問を。 「え……」 戦うつもりはないのだから、そうなった時のことも、瞬は考えたことはなかった。 問われたからには、考えて、その答えを返さなければならない。 そうなった時のことを考える前に、瞬は サガたちに一つの確認を入れた。 「お二人には、地上の平和を乱す意思があるんですか」 「そんなものはない。私は “いいサガ”に生まれ変わったのだ」 生まれ変わったも何も、彼は今は死んでいる(ことになっている)。 「アテナに拳を向けるなどという、そんな命知らずな真似をするほど、私は愚かではない」 『死んだ者が“命知らず”でいても、何の問題もないのでは?』などという 捻くれたコメントを、心優しく清らかな瞬は口にしない。 サガとシャカの返答を聞くと、瞬は ほっと安堵の胸を撫でおろした。 そして、明るい笑顔で、 「でしたら、僕はお二人には勝てません」 と、断言する。 「“でしたら”勝てない……?」 サガは、瞬のその答えに引っ掛かりを覚えたのである。 『でしたら、僕はお二人には勝てません』と答えられたら、 「地上の平和を乱す意思がある――と言ったら どうなるんだ?」 と尋ねたくなるのは、人として当然の反応だろう。 人として自然な反応を示した(だけ)のサガに、しかし、瞬は『なぜ そんな ひどいことを訊くのだ』という顔になり、まるで人の心を持たない人非人を見るような目を、サガに向けてきた。 「その時には、お二人を倒さなければならなくなりますが……。でも、僕に そんなことはさせないでくださいね。そんなことになったら、僕、どうすればいいのか……」 じわりと瞳を涙で潤ませて切なげに身悶え訴えてくる瞬は、全く強く見えない この瞬に負けたのなら、アフロディーテの実力も大したことはないと、サガは判断せざるを得なかった。 そこに、シャカが低い声で注意を喚起してくる。 「油断してはいけません。瞬は ただ者ではないのです。アテナと組んでハーデスを撃退し、あの一輝を自分の手足のように操り、アテナの最終兵器とも言える あの星矢の親友、脱げば脱ぐほど強くなる あの紫龍の同類、その上、奇天烈なダンスで名を馳せた あの氷河の むにゃむにゃ」 「むにゃむにゃとは何だ」 と、サガがシャカに問い返すのも、人として自然な対応だったろう。 そんな言い方をされたら、人は――普通の人も普通でない人も――気になるもの。 その言葉を口にしたくなくて、むにゃむにゃ言っただけだったシャカは、サガに そう問われて、瞬時に認識を改めたのである。 それは“言いたくないから言わないこと”ではなく、“知らないでいた方が幸せでいられること”として扱うべき情報だったと。 「あなたは知らないでいた方がいい。私でさえ、その事実を知った時には 心臓発作を起こしかけた」 シャカの心臓には毛が生えているということを信じて疑っていなかったサガが、シャカの その言葉に戸惑い、僅かに その眉に不安の影を落とす。 知らないでいた方が幸せでいられることに、もちろんシャカは それ以上 言及しなかった。 「なに、地上の平和を守るために戦う“いい人”でいさえすれば、瞬は、我々がどれほど威張っても、どんな我儘を言っても 何も言わないし、先達として立ててくれますよ」 「もちろんです! 高い志を持ち、無辜の民に深い愛情を注ぎ、僕よりずっと うんと強くて、その力で 地上の平和を守るために命をかけて戦う黄金聖闘士の皆さんを、僕は心から尊敬しています。三歩下がって、皆さんの影を踏みません!」 地上で最も清らかな魂の持ち主の澄みきった瞳、翳りも屈託もない明るい笑顔。 馬鹿にされているような気もしたが、サガは それ以上に、アンドロメダ座の聖闘士の清らかさ素直さを不気味に感じてしまったのである。 この清らかさ素直さに 裏があるとは思えない。 にもかかわらず――否、だからこそ――アンドロメダ座の聖闘士は不気味だった。 伊達に 偽教皇として聖域を支配していたわけではない。 サガは、自身を含め 多くの人間の表と裏を見てきた。 表の顔が清らかで高潔であればあるほど、裏の影は暗く深かった。 それが普通だった。 暗いものを ほとんど抱えていない人間も いることはいたが、そういう人間は物事を深く考えることを放棄した弱者であることが多かった――ほとんどが そうだった。 だが、アンドロメダは思考を放棄した馬鹿ではないだろう。 もちろん、弱者でもない。 そういう意味で、瞬は普通ではない。 サガは、瞬の得体の知れなさを心身で ひしひしと感じ取っていた。 |