「あれ? おまえ、なんで そんなとこから出てくるんだ?」 まさか 城戸邸の自室から廊下に出たところで、そんなことを訊かれることがあろうとは。 星矢に問われた氷河の、それが掛け値なしの本音だった。 出てきたのが星矢の部屋だったなら、星矢には 確かに そんな質問を白鳥座の聖闘士に投げかけてくる権利があるだろう。 しかし、氷河が出てきたのは、間違いなく彼自身の部屋だったのだ。 「出てきては いけないか」 「だって、瞬が――」 「瞬が?」 「いや……」 牛や羊が食べ物を反芻するように、星矢が もごもごと口を動かす。 そうしたあげく、だが、結局 星矢は口の中の言葉を吐き出すことをしなかった。 それが牛や羊のしたことであれば、口の中にあるものを喉の奥に押し戻すのは正しい反芻行為と言えるだろう。 しかし、人間が飲食行為以外のことで口を動かしたなら、それは大抵 言葉を吐き出すための行為であるはず。 にもかかわらず、星矢の口が どんな音も発しないということは、星矢は何らかの事情で、吐き出そうとした言葉を“言わない方がいい”と判断したことになる。 星矢が言おうとした言葉より、星矢に そういう判断をさせた事情の方が気になって、氷河は 星矢に、 「言え。瞬がどうしたんだ」 と尋ねたのである――もとい、説明を命じたのである。 星矢の着衣が土埃で汚れているのは、十中八九 彼が星の子学園で 子供たちと遊びまわった名残りである。 昼過ぎに星矢と出ていったので、てっきり瞬は星矢と共に星の子学園に向かったのだと思っていたのだが、そうではなかったのだろうか。 「瞬と 一緒ではなかったのか」 星矢と一緒だと思ったから 安心して、氷河は瞬に同道を申し出なかったというのに。 「んー……城戸邸出たのは一緒だったんだけど、瞬は 他に約束があるって言って、門の前で 俺と別れたんだ。俺は、てっきり、瞬は あのあと、おまえと合流したんだとばかり――」 「俺は ずっと部屋にいた」 「いや、でも、それ、変だろ」 なぜ 白鳥座の聖闘士が 自室にいることが“変”なのか。 なぜ 白鳥座の聖闘士と瞬が あとから合流したと、星矢は考えたのか。 あとで合流するなら、最初から一緒に出る。 星矢の思考過程が理解できず、氷河は彼の上に視線を据えた。 氷河自身は不可解かつ不快な気分になっただけで 睨んだつもりはなかったのだが、星矢は睨まれていると感じた――のかもしれない。 「まじかよ、まずいなー」 星矢は、できれば、彼が“変”と思うことになった事情を言わずに済ませたいような顔を作った。 それから、言わずにいても どうせ白状させられるだろうことを察した顔になる。 その表情の変遷に要した時間が、約2秒。 2秒後、思い切りの悪いことが嫌いな星矢は、結局、彼の反芻の理由を すっきり すっかり白状した。 「ついさっき、星の子学園を出る時に、ガキ共の夏服の仕入れに出てた美穂ちゃんが ちょうど帰ってきたんだ。そんで、お茶が美味いので評判の何とかって店で、瞬とおまえがお茶してるのを見たって言ってたからさ。てっきり 瞬はおまえと一緒なんだと思ったわけ」 美穂が星の子学園の子供たちの衣類を調達するのは いつも、某巨大ターミナル駅の近辺にある某々巨大リサイクルショップである。 もちろん、氷河は そんなところに出掛けていない。 「俺と?」 「美穂ちゃんは そう言ってたけど……。おまえに双子の兄弟はいないよな。てことは、ドッペルゲンガーか何かだったのかなあ」 星矢は なぜ、最も可能性の高い“人違い”という言葉を口にせず、そんな あり得ない可能性だけを口にするのか。 星矢には、そんなふうな奇怪やミステリーを好む傾向があっただろうか。 氷河の知る限りでは、星矢には そんな嗜好はなかった。 解せない顔で、氷河は、 「人違いだろう」 と、最も可能性の高い推察を星矢に提示したのである。 美穂が見たのは、白鳥座の聖闘士でもアンドロメダ座の聖闘士でもなかったのだ――という意味で、氷河は そう告げた。 星矢が、氷河の推察に眉をしかめる。 「でも、美穂ちゃんが瞬を見間違えるかな? ほら、瞬って、特殊じゃん。あの、男にも女にも見えない感じがさあ……」 星矢が“人違い”という可能性に言及しない論拠は、それだったらしい。 その考えには一理ある――と、氷河も思った。 瞬は、派手に目立って人目を引くことはないが、その存在に気付いてしまうと、その稀少さが異様に際立つ人間である。 瞬のような人間は、瞬の他には存在しないのだ。 では、美穂が見た瞬は、瞬だったに違いない。 そして 美穂は、瞬が男と――もしかしたら金髪の男と―― 一緒にいたから、その男を氷河だと思ったのかもしれない。 おそらく そうだろう。 しかし、その男は氷河ではなかったのだ。 それは、今日は一歩も城戸邸の外に出ていない氷河自身が 誰よりもよく知っている。 ならば、瞬は、いったい誰と一緒にいたのか。 氷河は、星矢に1時間ほど遅れて帰宅した瞬に、 「今日は 星矢と一緒じゃなかったのか」 と、さりげなく探りを入れたのだが、瞬の答えは、 「あ……うん。今日は 一人で静かに過ごしたかったから」 という、実に微妙なもの。 ラウンジの長椅子に座って 二人のやりとりを聞いていた星矢が肩をすくめたのは、瞬に『星矢と一緒にいると静かに過ごせない』と(婉曲的に)言われたからではなかっただろう。 星矢から事情を聞いていた紫龍も、氷河たちの横で、気まずげな沈黙を守っている。 瞬は、(いつもの瞬なら考えられないことだが)自分の返事を聞いた氷河の こめかみが僅かに引きつったことに気付いていないようだった。 白鳥座の聖闘士はアンドロメダ座の聖闘士の仲間である。 地上の平和を守るという同じ目的のために共に戦う同志であり、固い絆で結ばれた友であり、幼い時を共に過ごした幼馴染みでもある。 氷河は瞬の恋人ではなく、婚約者でもなく、民法上の配偶者でもない。 氷河は、特別に瞬を好きなだけの一人の男に過ぎず、その事実を瞬に知らせたこともない。 だから、外出する際には仲間と連れ立って出掛けることの多かった瞬が、その日以降 毎日 必ず 一人で出掛けるようになったことを咎めることは、氷河にはできなかった。 瞬が幼稚園児か、せめて小学校低学年の児童だったなら、『一人で外に出るのは危ない』と言って 引きとめることもできただろう。 あるいは、瞬がアテナの聖闘士でなかったら、かろうじて そうすることが許されたかもしれない。 だが、瞬は小さな子供ではなく、アテナの聖闘士である。 『一人で出掛けたい』と言われれば、氷河は、強引に同道することはできない。 以前は、よほどの理由がない限り、仲間の同道を許し、『一人で出掛けたい』などと言うことのなかった瞬の変貌に、氷河は こめかみだけでなく 口許や頬の筋肉までが引きつるようになっていた。 |