『なぜ 一人で出掛けたいんだ』
『どこに、何をしに行っているんだ』
『誰と会っているんだ』
と、氷河が瞬に尋ねることができなかったのは、彼のプライドのせいだったかもしれない。
瞬が仲間たちに何も言わず、誰かと会っているのだとしても、その誰かが瞬にとって 仲間たちより大事な人間であるはずがない。
ゆえに、それは、わざわざ尋ねるまでもないことなのだ――というプライド(のようなもの)。
あるいは それは、信頼ゆえのことだったのかもしれない。
こちらから問い詰めるようなことをしなくても、時がくれば、瞬は自分から仲間たちに事情を語ってくれるだろう――という信頼。

氷河の、そんなプライドや信頼は、だが 3日と もたなかったのである。
美穂が 氷河(ではない氷河)と瞬を見掛けた日の4日後、またしても一人で城戸邸を出て行った瞬のあとを、氷河は こっそり つけ始めた。
瞬が向かったのは、城戸邸の最寄駅から数駅 都心に向かった某巨大ターミナル駅に隣接して建つ某々ホテルのロビーだった。

パジェットではないが ラグジュアリーホテルでもない、交通の便がいいことだけが取りえの、正しくミドルクラスのホテル。
誰かと待ち合わせをするのなら、他に いくらでも気の利いた場所があるだろうにと、ロビーの柱の陰で、氷河は思っていたのである。
が、そこを待ち合わせ場所にしたのは、瞬の待ち合わせの相手が、そのホテルに宿泊していたからだったらしい。
エレベーターで2階のロビー(1階はターミナル駅直通のショッピングモールになっていた)に下りてきたのは、金髪碧眼の若い――といっても、20代後半の―― 一人の男だった。

少し長めの明るい金髪。
背が高く、均整のとれた体躯。
それは、美穂の中で、“瞬と一緒にいる金髪の男 イコール 氷河”という法則が発動しても、さほど不思議ではない風情の男だった。
顔立ちも端正だが、その表情から感じ取れる印象は“温厚篤実”。
“不愛想”の三文字を擬人化したような氷河とは、対照的な印象。
むしろ、真逆と言った方がいいほど、その男は温かく穏やかな空気で全身を包んだ男だった。

ラフな服装で、平日の日中に 街中で瞬と会っていられるということは、勤め人ではなく 旅行者か何かなのだろうか。
自発的に ここまで やってきたのだから、瞬は その男につきまとわれているわけではない。
瞬は、瞬自身が彼に会いたいから、ここに やってきたのだ。
余人に強要されたわけではない。
それは、エレベーターから降りてきた男の姿を認めた瞬間の瞬の表情で、すぐに わかった。
明るく輝く瞳。
自然に ほころぶ口許。
瞬は、彼に会えることが嬉しくてたまらないと言わんばかりの笑顔で、彼を迎えたのだ。
瞬に そんな笑顔を向けられて、嫌な顔をする者がいるわけもない。
ロビーラウンジのスツールに瞬が掛けているのを見付けた瞬間の男の笑みも、実に見事なものだった。

「瞬。待たせてしまったか」
「まだ約束の時刻になってませんよ、アルベルトさん」
名前から察するに、スペイン語圏の人間らしい。
十分に北方系で通る種類の金髪の持ち主なのに 浅黒い肌は、雪焼けによるものではなく、生来の肌の色に日焼けが重なってできているもののようだった。
氷河の知らない金髪男“アルベルトさん”の許に、瞬が駆け寄っていく。
その男を見上げる瞬の眼差しが、まるで恋する少女のそれのようで、氷河は 我知らず小宇宙を――怒りの小宇宙を――燃やしてしまいそうになったのである。

へたをすると、氷河は、小宇宙を燃やすどころか、オーロラエクスキューションを2、3発をアルベルトサンに向けて放ってしまっていたかもしれない。
もし 瞬が、その男と共にエレベーターに乗り込むようなことをしていたら。
氷河が かろうじて 彼の師直伝の技を使わずに済んだのは、瞬とアルベルトサンが連れ立って 1階に下りるための階段に向かったから――ホテルの個室に向かわなかったから。
どう見てもアルベルトサンが一般人で、アテナの聖闘士でも アテナの聖闘士の敵でもなかったから。
そして、ホテルのロビー前のフロントにいるフロントクラーク(もちろん一般人)が、自分に不審人物を見る目を向けていることに気付いたからだった。

人様に迷惑をかけるようなことをしているわけではないし、法に触れるようなことをしているわけでも、これから しようとしているわけでもないのだから、咎め立てされる筋合いはないのだが、それで 瞬に尾行の事実を気付かれるのは困る。
これ以上 瞬の尾行を続けるのは 見苦しく みじめたらしく感じられて嫌だったのだが、一般人の疑惑の眼差しに追い立てられ、氷河は、二人のあとを追うようにロビーを出ることになったのだった。
その氷河の前方10メートルほどのところを、瞬と金髪男が あとをつけてくれと言わんばかりに親しげな様子で歩いている。

昼下がりの巨大ターミナル駅の周辺。
もちろん 人で ごった返しているのに、瞬と その連れが異様に目立つのは なぜなのか。
自分と瞬が連れ立って歩いている様も、人の目には こんなふうに映っているのだろうか。
そんなことを思いながら、氷河は再び歩き出した。

そうして、氷河は、その日、瞬とアルベルトサンが 電車を乗り継いで浅草に向かい、そこで浅草寺にお参りをし、某鰻屋で鰻重を食べ、某甘味屋であんみつを食べるという、これが観光でなかったら 何が観光なのかと言いたくなるようなルートを辿る二人のあとをつけ続けることになったのである。
二人の行動で 唯一 普通の観光客らしくなかったのは、二人が 浅草観光のメインの通りから外れたところにある畳屋に入ったことくらいのものだった。

もっとも、氷河が“普通でない”と思っただけで、外国人観光客には 畳屋見学はメジャーな観光イベントなのかもしれない。
“町の畳屋”のイメージからかけ離れた その畳販売店は、海外輸出も請け負っているらしく、6階建てのビルの全フロアを使って見本販売を行なっており、店内にいる客の7割強が外国人だった。
おかげで、氷河も、二人に気付かれることなく、彼等の尾行を続けることができたのである。
二人が飲食店に入っている間は 店の外で待っているしかなかったので、そこで二人がどんな会話を交わしていたのかは わからなかったが、その時以外の二人のやりとりは、聖闘士の聴覚を持つ氷河には、多少の距離を置いても容易に聞き取ることのできるものだった。

それで獲得できた情報は、アルベルトサンの本名はアルベルト・マルダセナであること。
祖国がアルゼンチンであること。
日本の合気道の精神性に惹かれ、合気道と日本語を学び、現在は祖国で その道場を開いていること。
来日は既に5回目、今回の来日は、道場で使う畳の新しい輸入ルートを開拓するため。
「相手を倒すという思想がない戦闘術は、世界広しといえど、日本の合気道だけだ。素晴らしい。本当に素晴らしい」
と、アルベルトサンは幾度も興奮気味に瞬に語っていた。

その間ずっと、瞬は 嬉しそうな、切なげな、慕わしげな眼差しで、彼を見詰めていて――それは、瞬が“相手を倒すための戦い”しか知らないアテナの聖闘士であることのためだけではないようだった。
いったい 人は、誰を見る時、あんな目をするのか。
肉親、恋人、友人、幼い子供、憧れの人――。
アルベルトサンを見詰める瞬の目は、それらのどれとも違い、それらのすべてであるようにも見える。
氷河が気に入らないのは、アルベルトサンを見詰める瞬の眼差しに、とにかく熱烈な好意が感じられることだった。






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