氷河の尾行2日目。
ホテルのロビーで合流した瞬とアルベルトサンが向かった先は、合気道界最大の統合組織である合気会の本部道場だった。
人を倒さない格闘技、勝敗のない格闘技というのは、日本だからこそ生まれた武芸なのだろうが、その思想に共鳴する外国人は多いらしい。
道場の見学者の人種民族は多種多様、洋の東西も問わないものだった。
もしかしたら瞬は、単に、人を傷付けない武芸を学びたいだけで、アルベルトサンに特別な感情を抱いているわけではないのかもしれない。
氷河は、ふと、そんな希望を抱いてしまったのである。
無論、希望は希望にすぎない。
瞬は、アルベルトサンに対するほど 合気道に興味があるようには見えなかった。
瞬は ずっと、そして いつも、アルベルトサンを見詰めていた。

そのアルベルトサンは、既に幾度か道場を訪問していて、今日は彼は 何かの書類を受け取るためだけに 道場にやってきたものだったらしい。
初心者部と少年部の稽古を小一時間ほど見学すると、二人は そのまま駅にUターン。
宿泊していたホテルのクロークで、彼は 大きなバックパックを一つ 受け取った。
瞬は、アルベルトサンの横で、思い詰めたような目をして、アルベルトサンがバッグを背負う様を見詰めている。
ずっと、じっと、瞬はアルベルトサンを見詰めていた。

その段になって初めて、氷河は気付いたのである。
瞬が沈んだ様子で アルベルトサンを見詰め続けているのは、今日が彼の帰国の日だったからなのだということに。
荷物を背負ったアルベルトサンと瞬は、二人を空港に運ぶ電車に乗り込んだ。


空港でアルベルトサンが出国審査の手続きをしている間も、瞬は アルベルトサンから ほとんど目を逸らさなかった。
すがるような瞬の視線に気付いていないはずはないのに、アルベルトサンは 日本を離れるための手続きを粛々と片付けていく。
否、瞬の視線に気付いているからこそ、彼は 笑顔一つ見せずに粛々と、その作業に取り組んでいるのかもしれなかった。
二人が無言なのは、別れが つらいからなのだ。

二人は ほとんど言葉を交わさないまま、セキュリティチェックコーナーに向かった。
飛行機に乗らない人間の見送りは ここまで。
セキュリティチェックを通れば、アルベルトサンは搭乗ゲートに向かい、瞬は その先には進めない。
アベルトサンは――当然のことなのだが――本当に 一人で帰国するようだった。
この事態を素直に喜んでしまっていいのかと、氷河は迷ってしまったのである。
瞬は喜んでいないのに。
瞬が悲しそうなのに。

「アスタ・ルエゴ。サヨウナラ、瞬。また会おう」
アルベルトサンは、瞬に『アディオス』とは言わなかった。
アルベルトサンはまた瞬に会えると考えているのだろう。
実際、再会の約束が交わされているのかもしれない。
それとも、再会の約束が交わされていないから――再会を困難なことと考えているから、アルベルトサンは『アディオス』――さようなら――と言うのを わざと避け、『アスタ・ルエゴ』――また会おう――と言ったのか。

アルベルトサンの顔を見上げる瞬は、今にも泣き出しそうな目をしていて、そんな瞬と向き合っているのに、なぜアルベルトサンは瞬を抱きしめずにいられるのかと、(絶対に そうなることは望んでいないのに)氷河は驚嘆し、立腹した。
だが、氷河は、アルベルトサンの ラテン系らしからぬ冷静と自制心に、呑気に 驚き憤っている場合ではなかったのである。
アルベルトサンは動かない。
動いたのは、瞬の方だったのだ。
『さようなら』も言えずにいるらしい瞬の顔を、気遣わしげな様子で見おろすアルベルトサンの胸に、あろうことか 瞬は――瞬が――瞬の方が――飛び込み、しがみついていったのである。

「すみません……ごめんなさい……! 僕はどうしても みんなと一緒にいたかった……! みんなと一緒に戦わなければならないと思ったんです……!」
アルベルトサンの胸の中で、瞬は そんなことを悲痛な響きの日本語で訴えた。
仲間と一緒にいなければならないから、仲間と一緒に戦わなければならないから、共に行きたくても行くことはできないと、瞬は、そのことをアルベルトサンに謝っているのだろうか。
瞬は、本当は彼と行ってしまいたいのか――。

氷河には、瞬の 悲痛な謝罪の言が 信じられなかった。
本当は 信じたくないだけだったのかもしれないが、信じられなかった。
アルベルトサンが乗るのは、ブエノスアイレス行きの飛行機。
そこは、国際線の搭乗者のためのセキュリティチェックのための場所。
当然、外国人が多くいる。
そんな場所では、瞬とアルベルトサンの抱擁は、特段 奇異なものではなかった。
実際、瞬たちの周囲の あちこちに、互いに抱き合い、別れを惜しんでいる者たちは多くいた。

だが、瞬が 人前で そんな振舞いをすることは、氷河には 十分に奇異で異常で非常な事態だったのである。
瞬は、兄と引き離されてアンドロメダ島に向かう時も、懸命に涙を こらえようとしていた。
『生きてまた 兄さんと会えるのを楽しみに――』
兄に心配をかけないために事前に準備していたのだろうと思える惜別の言葉を、懸命に気を張って告げる瞬の不自然に、幼なかった氷河が どれほど苛立ったか。

あの時より――あの時より、瞬は、この別れが つらいのだろうか。
そんなことがあるだろうか。
それほど、瞬は、彼と一緒に行きたいと思っているのか。
瞬は、仲間のために、あえて日本に残ることにしたのか。
アテナの聖闘士としての義務が、瞬を 仲間たちに縛りつけているのか。
もしかしたら 瞬は、彼に一緒に来てくれと乞われ、その願いを 仲間のために断腸の思いで退けたのか。
瞬の悲痛な叫びは、そのための謝罪なのか――。

氷河は、わけがわからなかった。
瞬の何より強く大事な願いは、地上の平和が守られることであるはず。
その瞬が、地上の平和を守るために共に戦う仲間ではない、どこの誰とも知れぬ男との別れを嘆いて、その男に しがみつき泣いているのだ。
そんな状況を、氷河に理解できるわけがなかった。
混乱し呆然としている氷河の前で、アルベルトサンが 瞬を抱きしめ、低い声で 囁くように告げる。
「君のせいじゃないよ。瞬は何も悪くない。泣かないで」

瞬を いたわるアルベルトサンの声と言葉のせいで、瞬が 一層 強く 彼の胸にしがみつく。
氷河は、その時まで、自分は瞬の振舞いが信じられず、混乱しているのだと思っていた。
そして、呆然としているのだと思っていた。
だが、事実はそうではなかったらしい。
白鳥座の聖闘士は、激怒していたのだ。
氷河自身も気付いていなかったのだが、実は そうだったらしい。

ほとんど何も考えず、無言で、氷河は つかつかと二人に近付いていった。
そして、瞬の腕を掴んで アルベルトサンの胸から瞬を引き剥がし、空いている方の手でアルベルトサンの肩を掴み、力任せに その身体を薙ぎ払った。
普通なら 直立した態勢で横倒しになるところだろうが、合気道の師範の資格を持っているだけあって、巧みな体捌きを見せ、アルベルトサンは空港の床と熱い抱擁を交わすことにはならなかった。
さすがに、氷河の攻撃を無力化することまではできなかったようだが、加えられた力に逆らわず、流して、自身の身体を立て直す。
片膝を床につき、彼は、突然 自分に暴行を加えてきた男の顔に視線を据えてきた。

「氷河……!」
瞬の腕を掴み、憤怒の表情を浮かべている氷河を見ても、アルベルトサンは何も言わなかった。
アルベルトサンの分も、瞬が慌てて取り乱す。
「氷河……どうしてここに……」
それは、氷河の方が瞬に問いたいことだった。
なぜ おまえは こんなところにいるのか、そんな男の胸で泣いているのか――と。
瞬は、氷河の答えを待たず、氷河の無言の問いに答えを返すこともせず、眉を吊り上げている氷河の手を振り払い、アルベルトサンの側に駆け寄っていった。

「アルベルトさん、大丈夫ですかっ !? お……お怪我は――」
「ああ、何とか。荷物を預けたあとだったのが幸いした」
言葉通りに、アルベルトサンは 掠り傷の一つも負っていないらしく、彼が平然と立ち上がる様を見て、瞬は 細く長い安堵の息を洩らした。
それから 氷河の上に視線を戻し、罪のない一般人に乱暴を働いた仲間を責めてくる。
「氷河! アルベルトさんが何をしたっていうの! どうして こんなことをするのっ」
そんなことを言われても、氷河は その答えを知らなかった。
アルベルトサンは何もしていない。
何かをしたというのなら、それは瞬の方なのだ。
だが、瞬を責めることはできない。
だから、氷河は、瞬の難詰に どんな答えも返さず、無言で 踵をかえしたのである。

「すみません……! すみません……こんなことになるなんて――」
背後で、瞬がアルベルトサンに謝罪し、アルベルトサンが全く怒っていない様子で、
「私は大丈夫だ。彼を追いかけなさい。何か誤解したようだ」
と言っているのが聞こえたが、瞬は氷河を追ってこなかった。
おそらく、白鳥座の聖闘士の傷心より、アルベルトサンと別れを惜しむことの方が大事だから。

空港のガレリアを出る頃には、氷河の中で 煮えたぎっていた怒りは 完全に消えていた。
かといって、なぜ あんなことをしてしまったのかという後悔の念も湧いてこない。
氷河の頭の中は ほぼ空っぽで、しいて言うなら、氷河は、今 自分は何を考えるべきなのか、どんな感情に支配されるべきなのかを迷っていた。






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