愛と常識の関係性について






地域課の刑事だという中年の男が、城戸邸に 瞬を訪ねてきたのは、梅雨が終わりそうで続きそうな、続きそうで終わりそうな、実に曖昧で どっちつかずな季節の昼下がり。
彼は、外国人の男をひとり伴っていた。

外国人は見知らぬ男、もちろん刑事にも面識はない。
そもそも、グラード財団総帥の私邸にやってくる訪問客は、その ほとんどが屋敷の主人目当て。
言ってみれば ただの居候にすぎない瞬に面会を求めてくる者は、せいぜい、近所の公園や通りで、瞬に親切にしてもらった老人や 子供(とその保護者)が礼を言いにくるくらい。
瞬が 複数の成人男性の訪問を受けるのは、確実に これが初めてだった。
だが、成人男性二人から成る訪問者の指名は 瞬であるらしい。
自室で、メイドから その旨を伝えられた瞬は、首をかしげながら エントランスホールに下りていったのである。
そこで、瞬は、やはり見覚えのない二人の男性に会うことになったのだった。

「瞬は、僕ですが……」
「ええ、存じています。この辺りでは有名な美少女ペアの片割れ――」
「はい?」
「いえ、まあ、その、目を引きますから」
「何の用だ」
いつのまにか 瞬の隣りに やってきていた氷河が むっとして、刑事と瞬の間に入ってくる。
美少女ペアの片割れの傍らに、いつも金髪の不愛想な男がついていることも、この辺りでは有名なことらしく、50絡みの刑事は苦笑だけして、特に気分を害した様子は見せなかった。

「いえ、こちらの男性を ご存じではないかと思いまして、それで伺った次第です。英語圏の方ではないようで、署内では うまく意思の疎通がとれないでいるんですが……」
「は?」
私服の刑事が そう言って、指し示す必要もないのに わざわざ、隣りに立つ男を指し示す。
瞬は、その視線を、刑事の顔の上から、連れの男性の方へと移動させた。
右に約40センチ、上に約20センチほど。

“こちらの男性”は、何よりもまず 背の高さに意識を奪われる人物だった。
どう見ても195センチはあるだろう。
同伴の刑事も、日本人としては決して貧相な体格をしているわけではないのに、一回り以上 小さく見える。
歳の頃は、20代半ば。
ほとんど黒色に近い濃茶色の髪、瞳も同じ。
体格、筋肉も しっかりしている。
アテナの聖闘士でも 邪神の手先でもないのなら、何らかのスポーツ選手だろう――と、瞬は思った。
もとい、何らかのスポーツ選手でないのなら、アテナの聖闘士か 邪神の手先だろう――と、瞬は思った。
だが、小宇宙は感じられない。
彼は、頭一つ半分 高いところから瞬を見おろして、妙に瞳を輝かせていた。

「存じあげない方ですけど……」
「イセ ポリ オモルフィ!」
正しく瞬の頭の上から、大柄な身体に ふさわしい低音の歓声(としか言いようのないもの)が降ってくる。
思わず、瞬は言葉を失った。
刑事が、すかさず、
「何と言ったんです」
と尋ねてくる。
瞬は一度 深呼吸をして 気持ちを落ち着かせてから、刑事にとって重要と思われる情報だけを彼に伝えた。
「さあ、わかりません。が、ギリシャの方のようです」
「ギリシャ!」

刑事が、隣りのギリシャ人のそれに比べると、子供のそれにも聞こえる高さの声で、刑事にとって重要な情報を復唱する。
「それが わかっただけでも、こちらに伺った甲斐がありました。で、何と言ったんです?」
「……」
ギリシャ語は全く わからないようだが、それでも 自分が連れてきた男が『私はギリシャ人です』と言ったのではないことだけは、彼にも わかったらしい。
瞬が黙っていると、彼は勝手に彼の推理を披露してくれた。
「あー、もしや、美人だとか、美少女だとか?」

図星。
もしかすると この刑事は、本当はちゃんとギリシャ語を解していて、その上で身分を偽り、城戸邸に偵察にきた邪神のスパイなのではないかと、瞬は疑ってしまったのである。
事実は、全く そういうことではないようだったが。
瞬の沈黙で、彼は、自分の推理が的中したことを確信したようだった。
「あ、やっぱり? いやあ、思うことは、誰も同じなんですね!」
自分の推理が当たったことが よほど嬉しかったのだろう。
沈黙を守る瞬の微妙な表情を無視して、刑事は大らかに笑った。
日本の警察の無情と無礼が気に障ったらしい氷河が、こめかみを僅かに引きつらせ、エントランスホールから左にのびた廊下に奥に向かって声を響かせる。

「星矢! 紫龍!」
氷河が2階に向かって呼びかけなかったのは、仲間たちが自室ではなく1階のラウンジにいることを知っていたからで、呼ばれた二人は 極めて迅速にエントランスホールにやってきた。
星矢たちは、氷河の声が不機嫌そのもので できていたので、迅速に対応しないと城戸邸の温度が下がると、それを案じたのだったかもしれない。
やってきた仲間たちに、氷河は、不機嫌と不愉快によって形成された居丈高な口調で、
「こいつが何者なのかを聞け。ギリシャ語で」
と 命じた。
その命令に、命令された星矢、紫龍より先に――アテナの聖闘士たちより素早く―― 一般人であるところの刑事の方が反応を示す。

「皆さん、ギリシャ語が話せるんですか? なのに、金髪の彼氏だけができない?」
一般人の刑事は、決して 氷河を揶揄する意図はなく、純粋に 外国人(の姿をした男)が外国語を話せない(らしい)ことを 奇異に感じただけだったのだろう。
しかし、氷河は、それを侮辱ととったらしく、眉を吊り上げた。
紫龍が、刑事の誤解を解くため――というより、氷河を なだめるために、解説を入れてくれる。
「いや。氷河もギリシャ語はできるんですが……氷河は客人と口をききたくないんでしょう」
「どーせ、この男が 瞬を可愛いとか綺麗だとか、その手のことを言ったんだろ?」

本日 二度目の図星現象に、瞬と氷河が沈黙する。
一般人も そうでない者も、外国人も日本人も、思うことは誰も同じらしい。
「まあ、ごく普通の感性だな。フツーフツー」
刑事と違って 星矢は、氷河を揶揄する気で いっぱいだったろうが、氷河は もう眉を吊り上げようとはしなかった。

そういう経緯で、○○警察署地域課の刑事立ち合いのもとに行われた不審人物への聞き取り調査。
数分の やりとりで判明したのは、彼が記憶を失っているということだけだった。
自分の名前も憶えていないらしい。
刑事がギリシャ語を解していないのを幸い、紫龍が さりげなく、
「女神アテナを知っているか」
と尋ねると、
「当たりまえだ」
という、ギリシャ人なら“当たりまえ”の答えが返ってきた。

彼が記憶を失っていることを知らされると、刑事は がっかりしたように肩を落とし、同時に 腑に落ちたような顔になったのである。
普通、日本語が わからないだけの迷子の外国人は、母国語や他の言語で意思の疎通を図ろうと あれこれ騒ぎ立てるのだが、彼は そういうことをせず、ひたすら沈黙を守っていた(らしい)。
しかし、黙秘権を行使しようとしている人間にしては、その意思が感じ取れないので、刑事は彼の態度を奇異に思っていた(らしい)。
なぜ記憶喪失のギリシャ人が城戸邸に来ることになったのかを、紫龍が刑事に尋ねると、彼は城戸邸の最寄り駅に隣接しているショッピングビルの名を出して、その辺りの経緯を説明してくれた。

「あのビルの駅直通のエスカレーターは 上りしかない。そして、日本では、急いでいる人のために、エスカレーターを半分 空けておくのが慣例になっている。彼は、その空いている方を下る人のためのものだと思ったのか、上りのエスカレーターを駆け下りようとしたらしいんです。だが、途中まで下りたところで、下から上がってくる人と鉢合わせしてしまった。進むに進めなくなった彼は、その場に立ち往生。そのまま、エスカレーターによって、元の場所に運ばれたんですな。で、エスカレーターが上に着いたところで、もんどり打つように仰向けに倒れ、頭を打った。目撃者 多数。居合わせた者たちは皆、大男の行動を固唾を呑んで見守っていたそうですよ」
その目撃証言があったので、刑事は、彼が一時的な記憶障害に陥っている可能性に 考え及んでいたらしい。
英語で話しかけても、フランス語で話しかけても、スペイン語で話しかけても、中国語で話しかけても、韓国語で話しかけても 無反応だったので、確認には至っていなかったのですが――と、刑事は言った。

「エスカレーターを逆走なんて、悪ガキの いたずらじゃあるまいし」
今も十分に悪ガキの星矢が、呆れた口調で ぼやく。
が、刑事は、悪ガキレベルの外国人に同情的だった。
「あのビルは、エスカレーターと階段が平行していませんから。階段やエレベーターが離れたところにあるので、他に下りる道を見付けられなかったようですね」
そういう経緯で、彼は目立つほどの外傷は追わなかったが、エレベーターの上で転倒した際、意識を失った――らしい。
「ちょうどパトロール中の警官が近くにいて、身許のわかるものを探したんですが、彼は 身許がわかるものを何も所持していなかった。ただ、瞬さんの写真を十数枚 持っていたんですよ」

○○警察署の地域課には、有名な美少女ペアの片割れを知る者が多くいたので(彼自身も知っていたので)、写真に写っている美少女の身許は すぐに判明した――と、私服刑事は 悪びれる様子もなく言った。
言いながら、彼が 瞬たちに 差し出した写真に写っていたのは、間違いなく瞬当人。
ただし、場所は日本ではなく、ギリシャ――アテネの街だった。
ジェラートを食べながら、広場(おそらく シンタグマ広場)を歩いている瞬。
奥まった場所にある通りに面したオープンカフェの前に立っている瞬。
ペットショップで子猫を見詰めている瞬。
沙織のお供で街に出た時のものなのか、沙織と写っているものもある。
写真の背景が もう少し 名の知れた遺跡や建造物だったなら、警察の人間も 大男の国籍に当たりがついていただろうが、確かに これでは街どころか国も わからない。

刑事が瞬たちに見せてくれたのは、そういう写真だった。
場所も様々だが、服装から察するに、写した日時も ばらばら。
写真を撮った者の意図も目的も わからない。
それらの写真の共通点は、『この写真に写っている美少女を一目で男子と見抜ける者は、まずいないだろう』という所見を抱けること――くらいだろうか。
だが、それくらいのものだったからこそ、その写真は謎めいていたのである。

エスカレーター逆走男は、一般人にしては体格がいい――よすぎると言っていいほど、いい。
記憶を失っているとはいえ、その大男に小宇宙の片鱗が感じられれば、彼をアテナに敵対する神の差し向けた刺客と断じるところなのだが、肝心の小宇宙が全く感じられない。
聖闘士や それに類する人間が、記憶を失ったせいで小宇宙を燃やすことができなくなるということはあるのだろうか。
氷河が某ドルバル教主に洗脳された際や アイオリアが幻朧魔皇拳を受けた際、彼等は自身の小宇宙を維持していたが、あの時の氷河やアイオリアは記憶を失っていたわけでも、自分の意思を持つことを禁じられていたわけでもなかったので、今回のケースには当てはまらない。
アテナの聖闘士たちには、判断のしようがなかった。

「面識はありませんか……」
刑事が、少なからず 気落ちしたように呟く。
「身分証明書やカードの類も持っていなくて、お知り合いならと期待していたのですが」
「お力になれなくて、すみません……」
まさか、『彼は、地上の平和を乱そうとする悪者かもしれない』という可能性を、彼に告げるわけにはいかない。
瞬は善意の市民としての務めを果たせないことを申し訳なく思ったのだが、刑事は、瞬が警察官に対して情報を秘匿しているとは思いもせずにいるようだった。
そして 彼は、おそらく 済まなそうな顔をしている瞬のために、意識して大きく元気な声を張り上げた。

「いや、でも、使用言語がわかっただけでも十分な収穫です。ギリシャ大使館の方に確認を入れてみます」
「はい。あ、その方は、これから どちらに……」
万一、彼が邪神の手先だったなら。
瞬は それを案じたのだが、一市民の身では、不審人物の身柄を預かることもできない。
自分の不安や懸念の様子を すべて、刑事が好意的にとらえてくれていることが、瞬は心苦しくてならなかった。

「身許がわかるまでは、区の施設の方で保護することになるかと思います。何か思い出されたことがありましたら、署の地域課の方にお知らせください」
「はい……」
刑事は、『瞬さんには どんな責任もありませんよ』と繰り返し言いながら、正体不明の大男を伴って、城戸邸を辞していった。






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