彼女の聖闘士たちからの報告を受けた沙織が、何らかの行動に出たのかどうかを、青銅聖闘士たちは知らない。
とりあえず、それから1週間、瞬たちの周囲では、バトルはもちろん トラブルと言えるほどの騒ぎは何一つ起きなかった。
平和で平穏な1週間。
あの刑事が 再び、今度は一人で 城戸邸を訪ねてきたのは、その平和な1週間が終わろうとしている日の夕刻だった。
良い知らせと言っていい知らせを持って。

3日前――彼の城戸邸初訪問から4日後、ギリシャ大使館から問い合わせの回答をもらう前に、某ホテルから、チェックアウト予定の客が戻ってこないと連絡があって、調べたところ、その部屋から彼のパスポートが発見された――というのだ。
そのパスポートから得られた情報をもとに、大使館経由で、アテナ在住の母親に連絡がついたらしい。
逆走記憶喪失男の名は、ディミトリオス・ジシス。
大男なのも当然で、彼はバスケットボールのプロ選手だったらしかった――今も(一応)そうであるそうだった。

その時刻にしては珍しいことなのだが、沙織が在宅していたので、エントランスホールで立ち話というわけにもいかず、刑事は客間に通された。
口では しきりに『グラード財団総帥に お時間を割いていただくなんて恐縮です』を繰り返していたが、それと同じくらい『憧れの美少女ペアを こんなに近くで見られるなんて、署の皆に自慢できます』を繰り返していたので、彼が 本当に恐縮していたのかどうかは、かなり疑わしい。
客間のソファに腰を下ろすと、彼は、エントランスホールで青銅聖闘士たちに告げたことを、改めて沙織に報告した。

「彼の身許は、3日前にはわかっていたのですが……連絡が遅れてすみません。連絡を入れること自体が ご迷惑になってしまうのではないかと、懸念していたもので――」
逆走記憶喪失男を聖域の刺客なのではないかと疑っていた青銅聖闘士たちは、もちろん その連絡が欲しかった。
できれば、身許が わかった時点で。
が、逆走記憶喪失男が 瞬にも沙織にも無関係な人間なのであれば、そもそも彼には城戸邸に連絡を入れる義務はない。
なので、城戸邸の青銅聖闘士たちは、警察からの連絡の遅滞を責めることはできなかったのである。
実際 彼が持参した知らせは“悪い知らせ”ではなかったから、知らせが遅れたことで事態が悪化することもなく、それはそれで よかったのだろう。
だが、では、そもそも城戸邸に 報告する義務のない彼が、なぜ 再び城戸邸を訪れることになったのか。
しかも、逆走男の身許判明から3日も経ってから。

これは いったいどういうことなのだろう?
どういう場合なら、そんな状況が発生するのか。
まさか、ご近所で有名な美少女ペアを見るため――ではあるまい。
瞬たちは、その辺りの事情を測りかね、彼の説明を待ったのである。
彼の城戸邸再訪問は、(一応)ご近所で有名な美少女ペアを見るためではなかったようだった。

「ええ。おかげさまで、ジシスさんの身許は無事に判明したのですが、記憶を失っているのでは、一人で帰国することはできません。ですから、母君が日本まで息子を連れ戻しに来たんですよ。今朝方、到着しました」
「それは よかったこと。お母様が直接 迎えに来てくださったのなら、安心ですね」
記憶喪失男も、警察も。
もちろん、城戸邸の面々も安心できる。

記憶を失った息子を案じて、母親が迎えに来た。
まさか、聖域の刺客を母親が迎えに来ることはあるまい。
彼は、聖域にも アテナにも アテナの聖闘士にも 邪神にも 関わりのない、正しく一般人だったのだ。
その事実に、アテナの聖闘士たちは安堵の胸を撫で下ろしたのである。
とはいえ、安心することと 謎が解けることは、決して同じことではない。
彼が聖域からの刺客、邪神の手先でないのなら、彼が持っていたアンドロメダ座の聖闘士の写真はいったい何だったのかという謎は、依然として 謎のまま、そこに存在するのだ。

「でも、じゃあ、あの写真は……」
「それでですね!」
その謎の答えを求めようとした瞬を、刑事が異様に大きな声で遮る。
彼は 自分の大声で瞬を黙らせてから、更に大きな音量の笑い声を、城戸邸の客間に響かせた。
「ああ、いや、失礼。つい 思い出し笑いを……。はい、それで、来日した その母君が、なかなか豪快な母君でしてね。母子の対面は署の方でセッティングしたのですが、母君は そこで息子の顔を見るなり、あの大男を椅子に座らせて、『この馬鹿息子!』と怒鳴って、息子の頭をぶっ叩いたんですよ」
「は……? ぶっ叩……?」

「ギリシャ語通訳なんて、ホームズの小説でしか知らなかったんですが、いるとこには いるもんなんですな。母子の対面のために、方面本部の方で手配してくれまして。その通訳の方というのが30代半ばの女性で、母君の罵倒を『この馬鹿息子』と訳してくれましたが、実際は もっときつい言葉だったようです。困ったような顔をしていた。ああ、そういえば、その通訳の女性に、『メーテル』というのが、ギリシャ語で『母親』という意味なのだということを教えてもらいましたよ。子供の頃から憧れていたのに、この歳になって初めて知ったなぁ」
「はあ……」

彼は、宇宙空間をアンドロメダ星雲に向かって走る列車のマンガを愛読していたらしい。
が、この場にいる者たちが 何よりも知りたいことは、刑事の愛読書のタイトルでも 彼の憧れの人でもなく、逆走馬鹿息子が なぜアンドロメダ座の聖闘士の写真を持っていたのか――ということなのだ。
そのことに気付いていないわけでもあるまいに、刑事は、およそ どうでもいいことを 楽しそうに語り続ける。
分別や常識を持ち合わせない お調子者には見えない彼の、お調子者のそれとしか思えない言動。
彼の言動の意図や目的が、青銅聖闘士たちには わからなかったのである。
青銅聖闘士たちに わかったのは、ただ、“彼は絶対に恐縮していない”という、その一事だけだった。
「お母様に叩かれて……それで、ジシスさんの記憶は戻ったんですか?」
話の流れ的に――仕方がないので、写真の件を いったん脇に置いて、瞬は刑事に尋ねたのである。
刑事は、大仰に肩をすくめ、首を左右に振った。

「さすがに そこまで安易に事は運ばなかったんです。それで、豪快な母君は、おふくろの味で思い出させてやるから、キッチンを貸せと言い出したんですね。そして、おふくろの味を作るのに必要なものを用意するよう、私共に あれこれと要求してきまして。いや、さすがに それは、いくら何でも図々しいとは思ったんですが、そこまで面倒は見切れないと追い払うわけにはいかず……」
「警察の方も大変ですね」
「ええ。毎日、そんなのばっかりですよ。で、こちらなら、ギリシャ料理の食材や調味料も揃っているのではないかと思いまして」
「図々しいのは どっちだよ!」

実に的確な星矢のコメント。
刑事と瞬のやりとりを聞いていた沙織は、だが、図々しい刑事に更に毒づこうとした星矢を押しとどめた。
しばらく 何やら考え込んでから、沙織が刑事に提案する。
「ジシスさんが泊まっていたホテルは、チェックアウトの日になっても ジシスさんがお戻りにならないので、警察に通報してきたのですよね? お母様も、急の来日で、ホテルの手配まではしていらっしゃらないでしょう。これも何かのご縁ですし、お二人を我が家に ご招待いたしますわ」
「助かります!」

刑事が、星矢のコメントより早く、沙織の厚意に謝意を表明する。
どうやら 彼は、沙織から その言葉を引き出したいがために、城戸邸にやってきたのだったらしい。
沙織の気が変わらないうちにと思ったのか、彼は その場で 携帯電話を取り出し、ジシス母子を城戸邸に連れてくるよう、署の方に指示を出した。
これで首尾よく目的を果たすことができたと安堵したらしい刑事は、
「いやあ、よかった よかった。二人は10分以内に来るそうです」
と言いながら、グラード財団総帥と彼女の聖闘士たちに 満面の笑みを向けてきた。
その笑顔に、星矢は ふてくさった態度をあからさまにしたが、瞬は、当初の目的を果たした彼は、これで自分の質問に答えてくれるようになるだろうと、期待したのである。

「あの、それで、あの写真はいったい……」
刑事は、課せられた任務を果たして肩の荷を下ろし、肩のみならず、口も軽くなったらしい。
彼は、任務完了の笑顔を そのままに、逆走記憶喪失男の母親から入手したらしい情報を、快く瞬に手渡してくれた。
「彼はですね。母親や友人に、恋人に会いに行くと言って、ギリシャを発ったそうなんです」
刑事に手渡された情報に、瞬が 暫時 きょとんとする。
刑事が じっと自分を見詰めている、その視線の意味を、時間をかけて 嫌々ながら瞬は理解した。

「僕はジシスさんを知りません。先週、刑事さんと一緒にいらした時に会ったのが初めてです。ジシスさんが会いにいらした恋人は 僕じゃありません。僕は男子です」
「ええ。この地区に赴任した者は、まず それでがっかりするんですよ。私は、これまで、そういう警官を何十人も見てきた。その可愛い顔は罪ですなぁ」
「……」
こういう場合、歴とした男子は どういう反応を示すべきなのだろう。
『すみません』と詫びるべきなのか、それとも、立腹するべきなのか。
正真正銘の男子であるがゆえに、瞬には それがわからなかった。
言うべき言葉と示すべき反応を思いつけずにいる瞬の代わりに、星矢が刑事に尋ねる。

「それって どういうことだよ? 瞬の写真を何枚も持って、恋人に会いに来たって」
城戸邸訪問の目的を果たした刑事は、肩と口だけでなく、気持ちと脳まで軽くなってしまったらしい。
彼は、実に ほがらかな( =無責任な)な口調で、
「そうですなぁ。ああいうのは、ギリシャでは何と言うんでしょうなぁ。日本では ストーカーと言いますが」
と答えてくれたのである。

途端に、室温が5度 低下。
氷河の小宇宙の影響など受けないはずの瞬の顔と身体が強張り、それは星矢と紫龍も同様。
ジシス青年が 聖域からの刺客でなかったことは喜ぶべきことなのだろうか。
星矢は迷った。
紫龍も迷った。
そして、瞬も迷った――迷うしかなかったのである。

「そ……そ……そんな不届き千万な男、瞬には、絶対に会わせないぞーっ!」
氷河の怒号が客間に響き渡った時、逆走ストーカー男と その母親を乗せたパトカーが、城戸邸の玄関に到着した。






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