聖闘士の幸福






実年齢は軽く200歳を超える 聖闘士の最長老にして、前聖戦の生き残り。
天秤座の黄金聖闘士が、彼の弟子である紫龍と その仲間たちを五老峰に招いたのは、日本国内に存在する気象観測地点の8割超が猛暑日の連続記録を更新し続けていた頃。
城戸邸に起居している青銅聖闘士たちは、もちろん、その招待を謹んで受けることにした。
招待主が黄金聖闘士であり、紫龍の師でもあったから――ではない。
それも理由の一つではあったが、青銅聖闘士たちが老師の招待を受けた最大の理由は、やはり、不快指数120パーセント超の日本の夏の蒸し暑さだったろう。

空調のきいた屋内にいれば 特段つらいこともないのだが、毎日24時間 屋内で大人しくしているには、青銅聖闘士たちは若すぎ、活動的すぎたから。
そして、青銅聖闘士たちの中では 比較的ものぐさな氷河が、その招待に珍しく乗り気だったから。
氷河を乗り気にさせたのは、真夏にも17度に届かないという五老峰の平均気温。
及び、五老峰のある中国江西省廬山が中国屈指の避暑地だという事実だった。

青銅聖闘士たちの中で最も腰の重い氷河が その気になれば、師匠を敬愛してやまない紫龍と、とにかく 外を走り回りたい星矢が、その招待を拒む理由はなく、仲間たちの希望が叶うことが いちばんの希望である瞬もまた、一も二もなく その計画に賛同した。
氷河さえ 愚図つかなければ、青銅聖闘士たちの計画は 大抵、とんとん拍子に進む。
ちょうどアテナが1週間の予定で聖域に向かうことになっていたので、青銅聖闘士たちが日本を離れることに不都合はなかった。
そういう好条件が重なって、老師からの招待を受けた4日後には、青銅聖闘士たちは、李白が遊び、白居易が庵を築いた、廬山の人となっていたのである。

中国屈指の避暑地といっても、老師が居を構えている五老峰の周辺は、到底“街”とは言い難い辺境。
観光客が群がっているわけではなく、豪勢な別荘が建ち並んでいるわけでもない。
ホテルもなく、名所旧跡があるわけでもない。
深緑の木々で覆われた山また山の、まさに聖闘士の修行地に ふさわしい土地。
そんな、人里離れた山奥に、老師は青銅聖闘士たちを泊めるためのログハウスを(僅か3日で)建てて待っていてくれた。

詩に歌われ、絵に描かれ、ユネスコの世界遺産にも指定されている廬山。
そこには 評判に違わず、素晴らしい絶景があった。
山と木と谷と滝と川の他には何もない、だからこその豊かな風景。
木々が生み出す新鮮かつ濃密な酸素。
滝川が放出する心地良いマイナスイオン。
雪と氷で覆われているシベリア、砂と岩でできたアンドロメダ島、乾いた大地と遺跡のギリシャ――で聖闘士になるための修行を積んだ氷河、瞬、星矢には、五老峰の濃厚で豊かな緑は 驚異的ですらあった。

「紫龍。おまえ、滅茶苦茶 いいとこで修行したんだな」
聖闘士発祥の地で修行した星矢が羨むほどなのだから、氷河や瞬などは もはや あっけにとられることしかできない。
同じ自然――人工でないという意味で自然――だというのに、何という違い。
しかも、可愛くて気立てのいい女の子つき。
毎日 師である魔鈴に、『馬鹿』『阿呆』『死ねば』と罵倒される日々を過ごしてきた星矢は、その境遇の あまりの違いに、不満の言葉さえ思いつけなかったのである。

久し振りに紫龍が帰ってきたので、春麗は とても嬉しそうだった。
紫龍のお仲間というので、下にも置かないもてなしぶり。
食事は、中国四千年の江西料理。
近所にスーパーもコンビニもない廬山の山奥で 食事を4人分多く準備するのは大変なのだろうに、春麗は 迷惑がる素振り一つ見せず 始終にこにこしていて、その様は、
「春麗さん、紫龍が帰ってきたのが よっぽど嬉しいんだね」
と、瞬が 恐縮するのを忘れて 微笑まずにいられないほどだった。

眺めているだけで目が生き返るような美しい風景。
木々の匂い。
谷川の音と山鳥の鳴き声。
食べ物は美味、気候も申し分ない。
五感が すべて快い場所。
氷河が、
「自分の修行地に不満があるわけではないが、不公平感は否めないな」
という不平しか思いつけないほど、紫龍の修行地は恵まれた土地だった。

酷暑の日本――特に ヒートアイランド現象が甚だしい都市部――の気候を知る者には、平均気温が17度に届かない五老峰は天国である。
まして氷雪の聖闘士には。
氷河は、龍座の聖闘士の修行地が大いに気に入ったようだった。
瞬や春麗のように 上機嫌を表情に出すことはなかったが、氷河が上機嫌でいることは、彼の仲間たちには 疑いを挟む余地がないほど明白な事実だった。
もっとも、氷河の上機嫌は、彼が五老峰に着いた その日限りの儚いものだったが。

老師が用意してくれていたログハウスで、空調なしでも全く寝苦しくない夜を過ごした翌日には、氷河は もう上機嫌でなくなっていたのだ。
天秤座の黄金聖闘士が青銅聖闘士たちを五老峰に招いた目的を、招いた当人に告げられたせいで。






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