氷河は、彼の母親が生きていた頃は、何事にも意欲的な子供だった。 前向きで 積極的。行動力もあったし、意思的でもあった。 すべてはマーマのため――マーマを守るため、マーマを喜ばすため、マーマを安心させるため、マーマに褒めてもらいたいから。 氷河は、母のために生きているような子供だったのだ。 だというのに、その母が いなくなってしまったのである。 『マーマのために頑張っていたのに、そのマーマがいない世界で、いったい何をしろというのか』 それが、氷河の やる気のなさの理由だった。 否、“やる気がない”と言うより、氷河は最愛の母を失って自暴自棄に陥っていたのだ。 聖域にやってきた聖闘士志願の少年たちは、年齢と能力によって組み分けされ、肉体の鍛錬や体技の習得を義務付けられる。 最初の1年間に、一定の成果を出すか、 ある程度の力の向上を示さないと、“努力をしていない”と見なされて、その者は聖域を出ていかなければならなくなる。 氷河は、やる気を出せば 成果も向上も示すことができるのに、いつまでも母を失った痛手を引きずって、一向に やる気を出さなかったのである。 彼は、鍛錬 そのものに ほとんど参加しなかった。 『このままでは、遠からず 聖域を追い出されてしまうぞ』と、彼の仲間たちは 言葉を尽くして氷河を叱咤し 鼓舞したのだが、当の氷河は 仲間たちの心配など どこ吹く風。 逆に、『マーマがいないのに、地上の平和を守る聖闘士になるための つらい修行を重ねて 何になるんだ』と、仲間たちに言い返してくる始末。 そして、彼の仲間たちは、氷河の反駁を打ち破ることができるほどの動機を、氷河に示すことができなかったのである。 自分のためには頑張れない氷河を、彼等は知っていたし、だからこそ 彼等は 氷河の向後を案じていた。 「氷河、わかってんのか! いい加減、特訓に参加して、それなりの成果を見せないと、おまえは聖域を追い出されちまうんだぞ!」 「聖域を追い出されたら、何も やる気のない貴様は、1週間と経たずに そこいらの道端で のたれ死ぬことになるだろう」 「おまえは それでいいかもしれないが、そんなことになったら、俺たちが おまえのマーマに顔向けができん」 星矢に怒鳴られても、一輝に脅されても、紫龍に諭されても、氷河は 反応らしい反応を見せなかった。 おそらく 瞬が泣き落としに及んでも、結果は同じだったろう。 この1年間を五人で暮らしてきた、聖域の片隅にある小さな家。 最初の1年間の“努力”の成果がどれほどのものだったのかを示さなければならない判定の日が近付いている。 聖闘士志願者は、“努力”の判定者と“能力”の判定者に、“努力の成果”と“持てる能力”の どちらかを示すことができないと、聖域にいる資格がないと見なされて、聖域から追われてしまうのだ。 氷河の仲間たちは皆、ここで氷河を脱落させるわけにはいかないと、必死だった。 必死の説得を試みていた。 氷河を怒鳴り、脅し、なだめすかしている兄たちの脇で 瞬が何も言わずにいたのは、自分のためには頑張れない氷河を発奮させるには マーマに代わる“誰か”が必要だということを、瞬が知っていたからだった。 氷河の心を捉える“誰か”が現われない限り、氷河に やる気を出させることはできないのだ。 仲間たちが どれほど言葉を尽くしても ほぼ無反応な氷河に業を煮やした瞬の兄が、腕力での説得に及ぼうとした時。 外に向かって開け放たれていた窓から、瞬たちの家の中に、一羽のフクロウが飛び込んできた。 灰色のフクロウが、迷う様子もなく氷河の肩にとまる。 そうして彼は、クチバシに加えていた手紙を ぽとりと木の卓の上に落とした。 「氷河に手紙? 誰からだよ」 氷河の生死がかかった大事な場面に 突然 飛び込んできた闖入者に調子を狂わされたように、星矢が間の抜けた声をあげる。 手紙の受取人である氷河にも、差出人の心当たりはないようだった、 他人からの手紙を受け取ることなど、へたをすると、氷河は、これが生まれて初めてのことだったかもしれない。 フクロウ郵便は、聖域内における唯一の間接的情報伝達手段である。 聖域は、アテナが入ることを許していない人間や神――つまり、平和とアテナの敵――の侵入を固く拒んでいる。 人間を守護するアテナの考えに反対している他の神の力が及ばないように、聖域にはアテナの結界が張られているのだ。 そのため、聖域の中では、テレパス等の力は使えない。 情報を伝えたい人間の許に 直接赴くか、誰かに伝言を頼まなければ、情報の伝達はできない。 そして、聖域は、狭いのか広いのかが わからないほど広い。 たとえばアテナ神殿にいる人間が 闘技場にいる者に何らかの指示を出すのに、いちいち人間の伝令を立てていたら、それは労力と時間の甚だしい無駄使いである。 そこで、人と人の情報伝達の役目を担っているのが、アテナの聖鳥であるフクロウたちだった。 フクロウたちは、人から人へ、聖域内なら どこにでも10分以内で 手紙を届けることができると言われていた。 そのフクロウが“誰か”からの手紙を、氷河の許に運んできたのだ。 氷河が手紙を開くと、そこには、 『元気を出して。マーマはいつも氷河を見ているよ』 という短い一文が、優しい文字で記されていた。 「何だ、これ」 氷河に届けられた手紙を、星矢が横から覗き込む。 頓狂な声の星矢の疑念に、 「何だと言われて――手紙だろう」 紫龍が、正しいが、誤っていないだけの、どうしようもない答えを返してくる。 紫龍の答えに比べると、 「氷河に元気になってほしい人と思っている人がいるんだよ。この聖域の内に」 瞬の答えは、正しいかどうかは さておいて、何らかの意味があるものだったかもしれない。 「氷河に元気になってほしいなんて、俺たち以外に誰が思うんだよ」 星矢の素朴な疑問に、 「俺たち以外にも、氷河の ぐうたら振りに苛立っている奴がいるんだろう」 一輝が、妥当だが 益のない答えを返す。 一輝の答えに比べると、 「きっと氷河が 綺麗だから、どこかの優しい女の子が、好意から励ましてくれたんだよ」 瞬の答えは、妥当かどうかは さておき、夢と希望のあるものだったろう。 「この聖域に優しい女の子なんていないだろ。俺の知る限り、途轍もなく気の強い女ばっかだ」 と、星矢は現実を語り、 「気の強い女の人が優しくないってことはないでしょう」 瞬は、星矢の決めつけを やんわりと否定した。 とはいえ、星矢の決めつけは必ずしも間違いといえるものではなかったのだが。 アテナの聖闘士になることができるのは 原則 男子のみとされ、基本的に 女子は聖闘士になることができない。 だが、聖域は、男子のみならず、志を持つ女子をも受け入れることをしていた。 無論、体格で男子に劣り、体力的にも男子に劣る女子が、体格優れた男子でも逃げ出すような厳しい修行に耐えることは至難。 それでも可能性に賭けることを望むなら、その女子は 自分が女であることを放棄しなければならない。 その覚悟を表わすために、聖域では女子は 仮面で顔を隠さなければならないことになっていた。 その上、もし余人(男子)に素顔を見られるようなことがあった時には、その女子は 自分の顔を見た相手を愛するか殺すしかない――という、とんでもない内規が聖域にはある。 そのせいもあって、聖域にいる女子は そのほとんどが、顔に仮面をつけるだけでなく、心に鎧を まとっていた――つまり、かなり気が強かった。 「いや、だが、瞬の推測は 絶対にあり得ないこととは言えないぞ。氷河が重度のマザコンで、マーマを亡くしたせいで落ち込んでいることは、聖域中に知れ渡っている。母性本能にかられた酔狂な女子が、氷河を何とかして立ち直らせてやりたいと考えることもないとは言えない」 紫龍が そんなことを言い出したのは、彼が、その手紙の送り主を“マーマの代わりの誰か”にできるのではないかと考えたからだったろう。 紫龍の その言に力を得たように、瞬が大きく深く頷く。 「誰かが氷河のことを心配しているんだよ。誰かが氷河を見てるの。たった今、誰かが 氷河のことを思って、フクロウに氷河への手紙を託したんだ。きっと、今 この瞬間にだって、その子は この聖域のどこかで 氷河のことを心配してるよ。その女の子を心配させないためにも、氷河は元気にならなきゃ。氷河が沈んだままだと、その子が悲しむよ!」 拳を握りしめて力説する瞬に、力説されている氷河だけでなく他の仲間たちまでもが、少なからず驚きを覚えていた。 自分を皆の お荷物だと思っている瞬が 自分の意見を通そうとすることは、滅多にないことだったのだ。 もっとも、今 瞬が力んで語っている内容が瞬らしい夢物語だったので、瞬の仲間たちが驚いたのは、瞬の語る夢物語の内容に関してではなく、あくまでも 滅多にない瞬の強気に対して だったが。 「氷河、そんな子、どうなってもいいなんて思わないでしょ? 勝手に心配してるだけだなんて、言わないよね?」 いつにない瞬の熱弁に驚いて 何も言えずにいる氷河の様子を、いつもの無気力無反応と思ったのか、瞬の瞳に涙が にじんでくる。 「見てくれだけの奴だとわかって、その酔狂な女も 目が覚めるだろう」 一輝が嫌味たらしく そう言ったのは、氷河を発奮させるためというより、ぐうたらな仲間のために瞬が泣くことが気に入らなかったからだった。 一輝の嫌味と、瞬の涙ながらの訴え。 その どちらが より強く氷河の心を動かしたのかは定かではないが、ともかく 氷河は その日からやっと、聖闘士になるための特訓に真面目に参加するようになってくれたのだった。 |