氷河は、瞬ほど夢見がちな子供ではないし、瞬ほど 人の優しさというものに信を置いている子供でもなかった。
彼は、最初のうちは、瞬の言うような 優しい女の子などいるはずがないと思っていた。
ただ、手紙の文字が マーマのそれに似ているような気がしたから――氷河は、その手紙を 天国のマーマからのものなのではないかと思ったのである。
あるいは、そう思いたかった。そう思おうとした――だけだったのかもしれない。
だが。

“そう思う”。
氷河には、それで十分だったのである。
事実はどうでもよかったし、事実を知りたいとも思わなかった。
そして、氷河に手紙を送ってくる“誰か”は、そんな氷河の心を読んでいるかのように、それがマーマからの手紙であっても おかしくない内容の手紙を、氷河の許に届け続けてくれたのだ。

『普通の人なら、できるまでに一ヶ月もかかる岩壁登攀が、一日で できるようになりましたね。氷河は、きっと聖闘士になれると思います。つらいことや 寂しいこともあるでしょうけど、挫けずに頑張ってくださいね』
『あの大きな岩を素手で砕くことができるようになるのは 千人に一人もいないそうです。氷河が聖域にいることに文句を言える人は、もう誰もいないでしょう。安心しました』
『氷河は短い期間で とても強くなりました。だから、あまり無理をしないで。今日、氷河と実技で戦った人は白銀聖闘士だったんです。負けるのが悔しくても、少しずつ強くなっていけばいいと思います』

氷河が褒めてほしい時、気分が沈んでいる時、誰かの言葉が欲しいと思う時に 必ず届く、優しい励ましの手紙。
誰かが自分を見ていてくれる。
自分の身を案じ、その成長を喜んでくれているのだと思うと、氷河は それだけで強い意欲を抱くことができた。

そうして、聖域に来て6年。
最初の1年で かなり遅れをとったにもかかわらず、氷河が仲間たちと共に、聖闘士の証である聖衣を得ることができたのは、折に触れ届けられる“誰か”からの手紙の力によるところ大だったろう。
聖域の指導員や他の聖闘士たちは、一つの小さな村出身の子供が五人も聖闘士の称号を得るのは アテナの特別の思し召しがあってのことに違いないと言っていたが、氷河はアテナに励ましてもらった記憶など、一瞬一寸たりともなかった。

そんな氷河が、手紙の送り主が誰なのかを知りたいと思うようになったのは、ごく自然なことだったろう。
むしろ、これまで知りたいと思わずにいられたことの方が、奇跡的な無頓着だったのだ。
しかし。

フクロウ郵便は、手紙を届けたい相手の名前を知らないと、返信はできない。
氷河が手紙の送り主に会いたいと望んでも、その望みを、手紙の送り主に伝えることは不可能なのだ。
聖域には、少なくとも10羽を下らない数のフクロウがいて、郵便配達の仕事に携わっていた。
すべてのフクロウの動向を探るのは無理なことである。
それは わかっていても――母を失った喪失感から立ち直ることができず、へたをすると6年前に聖域を追い出され、どこかで のたれ死んでいたかもしれない ろくでなしを、何年も励まし続けてくれた優しい人に会いたいと願う氷河の気持ちは、日を追うごとに強くなっていった。



「それは無理なんじゃないか? たとえ、手紙の送り主が どこの誰なのか わかっても、仮面の掟があるから、どっちにしたって顔は見られないわけだしな」
「向こうが名を知らせてこないのは、その気がないからだろう。諦めろ」
「6年もの間、怠け者のおまえを励まし続けてくれた奇特な人間だ。おまえの気持ちも わからないではないが、向こうは、女であることを捨てて聖域に入った女の子だぞ。軽々しいことは すべきではない。まかり間違うと、その子は聖域を出ていかなければならなくなる。最悪の場合は、恩人と殺し合いだぞ」

星矢たちが 妙な決めつけをしていることに気付いて、氷河は 少々 気分を害してしまったのである。
彼が手紙の送り主に会いたいと思うのは、そんな気持ちからのことではなかったのだ。
「貴様等、下種の勘繰りはやめろ。俺は、彼女の顔を見たいわけではない。ただ、礼を言いたいだけだ」
「下種の勘繰り? なんだよ、氷河。おまえは、おまえみたいな ド阿呆を6年間ずっと見守って 励まし続けてくれてた女の子に惚れてないってのか? それって変だろ」
「貴様みたいな ろくでなしに呆れず 放り出さず、6年もの間ずっと 見守ってくれていた寛大と忍耐力の持ち主。まさに 貴様のマーマ以外には あり得ない、奇跡的存在だ。その相手に惚れてない? それこそ、あり得ん」
「そういう決めつけも どうかと思うが、母親でもないのに、それほどの好意を示してくれた心優しい女の子に、本当に心を動かされていないというのなら、氷河は 人間としても男としても どこかおかしいと言わざるを得ないな」

氷河にとって“誰か”は、決して恋の相手ではなかった。
恋人と母親を結ぶ線があったとしたら、限りなく母に近いところにいる人。
感謝こそすれ、その仮面を剥ぎ取ることなど考えたこともない。
本当に、考えたことがなかった。
自分のような ド阿呆を6年もの長い期間、呆れず放り出さず励まし(脅し)続けてくれた寛大な仲間たちに、たった今、『彼女に惚れていない方がおかしい』と言われるまでは。
母のような慈愛を示し続けてくれた“誰か”が 母ではないという事実を、今、改めて思い起こさせられるまでは。

母ではないのだ、彼女は。
彼女は、氷河が生きていても死んでしまっても何も困らない。
どんな責任もない。
彼女は、氷河の母ではないのだから。
しかも、彼女は氷河にどんな報いも求めてこない。
そう考えると、“誰か”の厚意は、奇跡と言っていいほど広く、深く、温かく、強い。そして、優しく、美しく、尊いものだった。
彼女は“母”ではないのに。

氷河が手紙の送り主に 本当に会いたいと思ったのは、何としても、どんなことをしても、絶対に会わなければならないと思ったのは、まさに今、この瞬間だったかもしれない。

「氷河……その人に会いたいの……?」
それまで 全く口をきかず、仲間たちの陰に隠れるようにしていた瞬が、不安そうに 氷河に尋ねてくる。
「いや……もう、いい」
氷河が そう答えてしまったのは、『どうしても会いたい』と 本当の気持ちを瞬に告げてしまうと、心優しく同情心の強い この仲間は、仲間の願いが叶わないことに胸を痛めることになるだろうと思ったからだった。
『会いたい』と言ったところで、その願いは叶わないのだ。
星矢たちなら ともかく、真面目に仲間の気持ちを慮り、その傷や痛みに寄り添う瞬に 本心を知らせて、瞬の心まで消沈させることはない。

「会えたところで、どうせマーマではないんだし」
そう言って、氷河は横を向いた。
涙を帯びた瞬の切なげな視線を感じたが、氷河は瞬に何を言うこともできなかった。
瞬に対して、嘘を重ねるようなことは したくなかったから。






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