引越し自体は、つつがなく完了した。
引越し蕎麦も無事に(?)食べ終わり、瞬は まず、ナターシャに正しい箸の持ち方を教えるという自分の仕事を一つ見付け出した。
氷河は終始 無表情で、傍目には、瞬の引越しを歓迎しているようには見えなかったが、氷河の機嫌が悪くないことは、付き合いの長い彼の仲間たちには、小宇宙を感じ取れなくても わかっていた。
付き合いが短く、小宇宙の何たるかも知らないナターシャにも 氷河の機嫌の良し悪しがわかることに感心しながら、星矢と紫龍は帰宅。
『マーマのおうちに お泊りスルー』と はしゃぐナターシャを 瞬に預けて、氷河は仕事に出掛けていったのである。

ナターシャを預かったことは、これまでにも何度もあったし、ナターシャも瞬の家での お泊りには慣れているのだが、“家”の場所が違うと 気分も変わるのか、ナターシャは 氷河の出勤後もずっと、いつもより はしゃいでいた。
「ナターシャちゃん、元気だね。昼間、星矢の遊び相手を頼んじゃったから、疲れさせちゃったかと思ったのに」
「星矢お兄ちゃんは、遊ぶのヘタなんだよ。モリとザルとセイロの違いが わからないって、オソバヤさんで ずっと悩んでタヨ」

それは“遊び”とは言わない。
遊びとは言わないが、そんな遊びに付き合わされていたのなら、ナターシャは さぞ退屈したことだろう。
それで日が暮れてもナターシャは元気があり余っているのかと、瞬はナターシャに 星矢の遊び相手を頼んだ軽率を反省したのである。
だが、ナターシャが 夜になっても元気で興奮気味なのは、蕎麦屋での星矢の遊びのせいではなかったらしかった。

「マーマが ナターシャとパパとおんなじ お家に来たから、パパが嬉しいの。パパ、喜んでるの。だから、ナターシャも嬉しくて楽しいんダヨ」
「え……」
一見した限りでは不愛想で無表情。
普通の人間なら、10人中10人までが“機嫌が悪い”と見なし、100人中98人までが“クール”と誤解する あの氷河の真情を、ナターシャは 本当に どうやって読み取っているのだろう?

それは、ナターシャがパパを大好きだから感じ取れることなのか。
あるいは、氷河がナターシャを深く愛しているから、自然に伝わることなのか。
それとも、親の心が 子供(自分)の境遇を左右することを知っている子供の誰もに共通して備わっている能力なのだろうか。
いずれにしても、ナターシャが感受性と洞察力に優れ、共感能力に恵まれているのは 紛れもない事実のようだった。

「ナターシャちゃんは、氷河の気持ちが とってもよくわかるんだね」
「ワカルヨー。ナターシャ、パパが大好きダカラー」
「うん……」
母に与えられた無償の愛を、きっと氷河は――氷河も――誰かに与えたかったのだろう。
そうすることが、氷河にとって、彼の母の愛に報いる唯一の方法なのだと、氷河は考えている――否、氷河のことだから、直感的に そう感じている。
ナターシャは、氷河の仲間たちにはできなかった方法で、氷河を幸福にしてくれているのだ。

そんなことが自然にできてしまうナターシャが、瞬は羨ましかった。
羨ましく、愛しく、そして、何があっても この小さな少女を守らなければならないと、瞬は思ったのである。
ナターシャの幸福は、氷河の幸福そのものなのだから。






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