「美幸!」 いったい彼女は誰を呼んでいるのか。 彼女の視線は まっすぐにナターシャの上に注がれていたというのに、彼女が発した音の意味を、瞬は すぐには理解できなかった。 ナターシャに“ナターシャ”以外の名がある可能性を、瞬は それまで ただの一度も考えたことがなかったのだ。 それは、この時が訪れる前に 幾度も考えておくべきことだったというのに。 瞬が氷河に、 「ナターシャちゃんを育てるのに、協力させて」 と申し出た時、暫時 逡巡した様子を見せた氷河が、それでも無言で頷いたのは、瞬が彼にとって 信の置ける仲間だったからではない。 アテナの聖闘士らしからぬ瞬の社会性や良識が、子供の養育に有益だと考えたからでもない。 瞬が 彼の恋人だったからでもない。 ナターシャに“マーマ”を与えるためでもない――おそらく、ない。 氷河が あの時、『俺が俺の手で育てると決めた。他人の手を借りるつもりはない』と 瞬に言わなかったのは、瞬が医師だったからである。 ナターシャには、ナターシャの秘密を守り通すことのできる主治医が必要だったのだ。 ナターシャが生きていることを異様だと思わず、余計な詮索もせず、その身に何かあった時に 黙って加療する医者が、氷河とナターシャには必要だった。 だから、氷河は瞬の申し出を、 「頼む」 と言って受け入れたのだ。 戦うこと以外で 人の命を守ることをしたいという思いから医師になった瞬は、その時――『頼む』という言葉を口にすることで自分の力の限界を認める氷河の青い瞳に出会った時――自分が医師になったのは このためでもあったのだと、それは必然の運命でもあったのだと 思ったのである。 ナターシャの 継ぎ接ぎだらけの身体と命は、瞬以外の医師には認め難いものだったろう。 その日、瞬は、ナターシャの微熱が重篤な病の兆候でないことを確認するために、彼女を病院に連れてきていた。 幸い、ナターシャの発熱は、麻疹でも水疱瘡でも細菌による感染症でもなく――検査をしているうちに、彼女の熱は下がり始めた。 瞬は 安堵して、ナターシャの手を引き 検査室を出て――その廊下で、彼女に会ったのである。 30歳前後、顔立ちは整っているのに、何事かを思い詰めているような翳りのある女性。 3歳前後の男の子の手を引いているが、その子は具合いが悪いようには見えないので、隣接している健診センターに三歳児健診にやってきた母子なのだろう――と、瞬は推察した。 ナターシャを『みゆき』と呼んだ婦人は、しばらく ナターシャから目を逸らさずにいた。 やがて大きく頭を振り、身体を ぐらつかせ、すがるように廊下の壁に手をつく。 「そんなはず……そんなはずない……!」 自身に言い聞かせるような その呟きで、瞬は彼女が何者なのか――その可能性に思い至ったのである。 瞬は、そのまま 素知らぬ振りをすることもできた――彼女の混乱に気付かなかった振りをすることもできた。 彼女の脇を 通り過ぎてしまいたかった。 だが、彼女の瞳が涙で潤み始めた時、その様を認めてしまった時、自分は彼女から 逃げるわけにはいかないのだと、瞬は悟った。 廊下の真ん中に立ち止まり 動かなくなった瞬の顔を、ナターシャが怪訝そうに下から覗き込んでくる。 「マーマ、どうしたのー」 その声に答える代わりに、瞬は つないでいたナターシャの手を 強く握り返した。 その つもりだったのだが、自分の手に本当に力が こもったのかどうかさえ、瞬には わからなかった。 ナターシャが白衣の医師を『マーマ』と呼んだことが、その婦人には衝撃だったらしく、彼女は――彼女も、その顔を青ざめさせた。 懸命に、瞬は冷静な医師の顔を保ち続けようとしたのである。 その努力が 成果に結びついたのかどうかは、あまり重要なことではなかったかもしれない。 瞬が冷静を装い示そうとした相手が 全く冷静ではなかったのだから。 「ご気分が優れないようですが……。横になった方がいいのでは」 「大丈夫です。ちょっと立ちくらみを起こしただけですから」 そう答える彼女の声は、冷静さを失いかけている瞬にも容易に感じ取れるほど はっきり震えていた。 「具合いが悪くなられた方が横になれる休憩室があります。ご案内します」 右手は、ナターシャの手を握っている。 その手を放して両手で彼女を支えることができず、瞬は 左手だけを彼女の前に差し出した。 その手に触れることを、彼女は 恐れているようだった。 「あの……」 それだけでなく、彼女は、ナターシャをさえ恐れているように見えた。 「うちの娘を見て驚かれたようですが……」 「先生の娘さんですか」 「ええ。ナターシャといいます」 「ナターシャ……ちゃん……。そう……そうですよね……」 何が“そう”なのか。 尋ねることができず――瞬は 無言で彼女を 具合いの悪くなった来院者を休ませる部屋に案内した。 |