ナターシャは休憩室の窓際に置かれたソファベンチに膝をついて、院庭にある噴水を眺めている。 その後ろ姿を ちらちら窺い見ながら、彼女は 彼女が立ちくらみを起こすに至った事情を、瞬に語ってくれた。 ナターシャに聞こえぬよう、小さく低く抑えた声で。 「すみません。亡くなった娘に似ていたので……そっくりなので……娘が生き返ってきたのかと――」 『そうだったんですか』と応じれば、それ以上 何も聞かずに済む。 彼女に、(おそらく)つらい出来事、(おそらく)悲しい出来事を語らせずに済む。 それは わかっていたのに、瞬は、 「ご病気で?」 と尋ねてしまっていた。 「いえ、事故で」 彼女は、その出来事を語りたかったのか、語りたくなかったのか。 それは瞬には 察しようもないことだったが、ともかく、彼女は語り始めたのである。 幾度も、ナターシャの上に視線を投じながら。 彼女の語ったところによると。 彼女の名は、大矢ゆかり。 2年ほど前に、夫と長女を事故で亡くし、当時まだ1歳半になったばかりだった長男と二人きりで残された――ということだった。 事故は、都内にある某レジャーランドでの原因不明の爆発事故。 彼女の表情に色濃い翳りがあるのは、彼女が一度に夫と娘を失った衝撃から まだ立ち直り切れていないからなのかもしれない。 彼女自身は早くに両親を亡くした天涯孤独の身だったので、結婚の際には 夫の実家から猛反対を受けた。 そのため、夫の事故死後は、忘れ形見がいるにもかかわらず、夫の両親とは絶縁状態になっている――ということだった。 「あの子がいてくれなかったら、私は とっくに死んでいました」 ナターシャと並んで庭の噴水を眺めている小さな男の子を見詰め、彼女は力ない声で呟いた。 「爆発に巻き込まれて、夫と娘が死んだのは確かなんです。遺体はひどい ありさまででしたが、夫は身元確認できましたし、娘も――娘の服を着た遺体の一部が見付かって、DNA鑑定もして、お墓も作りました」 瞬の心臓が、痛いほど収縮する。 “遺体の一部が見付かった”というのは、“遺体の一部は見付かっていない”ということだろう。 おそらく頭部が。 瞬は 素早く、ナターシャの着衣を確認した。 レースとリボンで飾られた 女の子らしいアンサンブル。 ナターシャの傷だらけの身体は、外からは窺い知れない。 「ご夫君が亡くなってから、お一人で息子さんを育てていらしたんですか? 大変でしたでしょう」 「それは……いえ、それほどでは……。よその母子家庭に比べれば、苦労は少なかったんです。美幸が生まれた時、夫は それは喜んで、もともと生真面目で責任感の強い人だったんですけど、自分に万一のことがあっても、そのせいで美幸が自分の夢を諦めるようなことにはならないよう、高額の保険に入っていたので――。私たちには 頼れる親戚もありませんでしたから、心配だったんでしょう。事故現場になったレジャーランドの運営会社からも 賠償金をいただけましたし、私も宅建の資格を持っていましたので、夫の死後も 経済面での苦労は さほどではなかったんです」 それでも――それほど家族を愛してくれていた夫を失った喪失感は大きかったに違いない。 『あの子がいてくれなかったら、私は とっくに死んでいた』という彼女の言葉は、決して誇張ではないように、瞬には思われた。 「あの日は、貴幸――下の子の1歳半健診の日で、私は 息子と健診センターに、娘は夫とレジャーランドに出掛けていくことになっていたんです。美幸は 何日も前から 楽しみにしていました。美幸はパパが大好きな子だったので」 涙ぐみ、その涙を隠すように、彼女はバッグから携帯電話を取り出した。 そして、そこに一枚の写真を映し出し、瞬に指し示す。 「事故の直前に、夫が送ってくれた娘の写真なんです。消せなくて――」 「あ……」 それは間違いなくナターシャだった。 半袖の薄桃色のワンピース。 健やかにのびた手足には傷一つない。 その場に居合わせた人に撮ってもらったのか、父親に抱きかかえられ 笑っている写真もある。 ナターシャを抱きかかえている父親は、氷河とは全くタイプの違う、生真面目そうな黒髪の男性だった。 氷河とは対照的に、はっきり 笑顔とわかる笑顔。 父娘は 楽しそうだった――幸せそうだった。 「内気な子だったんですけど、パパといる時だけは元気で明るくて――」 こんなに可愛らしい娘と 誠実な夫を一度に失ったのだ。 『あの子がいてくれなかったら、私は とっくに死んでいました』は、悲劇に酔うための言葉でも、他人の同情を引くための言葉でもなく、ただの事実。悲しく つらい、ただの事実なのだろう。 彼女の前で、だが、瞬も つらく苦しかったのである。 ナターシャを見詰める彼女の眼差しが。 そして、彼女に出会ってしまったことを 氷河に知らせないわけにはいかない自分の立場が。 |