ほぼ無言で、氷河は瞬の話を聞いていた。
『噴水の虹の お話スルー。パパが帰ってくるまで起きテルー』と頑張っていたナターシャは、とうの昔に 健やかな眠りに就いている。

「『ナターシャちゃん、さようなら』って言う大矢さんに、ナターシャちゃんは『さよなら、おばちゃん』って……。ナターシャちゃんは何も憶えてないの。でも、だから なおさら 大矢さんが お気の毒で――」
そんな二人を見ていて、涙を零さずにいられたのが奇跡だったと思う。
泣いてしまっても、それは 娘を失った母親への同情の涙だと言い訳はできたろうが、瞬が 何とか涙を堪えることができたのは、氷河とナターシャのためだった。
ナターシャを、マーマの涙で不安にさせないため。
“ナターシャちゃんのマーマ”の過剰な同情が“美幸ちゃんのママ”に疑いを抱かせ、万が一にも 氷河がナターシャを失う事態を招くことがないように――瞬は必死に涙を堪えたのだ。

そして、瞬は、氷河の前でも 絶対に泣くわけにはいかなかった。
“ナターシャのマーマ”が ナターシャの実母との出会いに動揺している様子を、氷河に見せるわけにはいかない。
氷河こそが、ナターシャの実の母親(かもしれない女性)の出現に、誰よりも強い衝撃を受けているのだ。

氷河は、氷河を知らない人間には真冬の北の海のように冷たく感じられるらしい青い瞳を、炎よりも冷たく凍りつかせ、氷よりも熱く燃やしている。
瞬は今、氷河の命を守るために 自らの命を北の海に捧げた彼の母より強く毅然とした存在でいなければならなかった。
瞳だけでなく、表情だけでなく、身体だけでなく――すべてを石のように固くして、声も言葉も呼吸も忘れたように 瞬の話を聞いていた氷河が、長い沈黙のあと、心臓を捩じ切るように苦し気な彼の思いを口にする。
「瞬……俺は、彼女に事実を知らせるべきなのか」

『彼女には 何も言うな』と言われた方が、瞬は いっそ冷酷になれた。
真実を彼女に知らせるべきなのかと、氷河が迷うから――愛する者の前で誠実であろうとする氷河が、あまりに氷河らしくて、瞬は泣きそうになった。
『ナターシャは俺の娘だ』と、『ナターシャには何も言うな』と、『ナターシャを幸せにできるのは俺だけだ』と、氷河が傲然と言い放ってくれたなら、瞬は彼を『それは卑劣だ』と責めることもできたのに。
なのに、氷河は いつも、彼の愛する人に嘘をつけないのだ。
だから、氷河を愛する人間は いつも、彼の粗野で剥き出しの誠意に応えるために、自分の命をかけなければならなくなる。
氷河を愛する人間は、自分自身を守ることができなくなるのだ。

氷河が掛けているソファの前に移動して、瞬は身体を屈めて、氷河の肩を抱きしめた。
氷河が、すがるように 瞬の背中に腕をまわしてくる。
氷河は、ナターシャを失いたくないのだ。
だが、ナターシャを愛するがゆえに、氷河は そう言ってしまうことができない。
瞬は、そんな氷河が 愛しく可愛かった。
氷河が どれほど ずるい大人になっても、どれほど ずるい子供でいても、守るべき一線は 命をかけて守ることが わかっているから、瞬は安心して氷河を甘やかすことができるし、安心して厳しい言葉を口にすることもできた。

「氷河……氷河は、ナターシャちゃんを好きでしょう? ナターシャちゃんに幸せになってほしいと願っている」
瞬の背にある指先に 無言で 力を込めることで、氷河が頷く。
それは言うまでもないこと、考えるまでもないことだった。
「僕たちがしなければならないのは、ナターシャちゃんを幸せにすることではなく、ナターシャちゃんの幸せを守ることだよ。幸せっていうのは、いつだって、その人の心の中で生まれ育つもの。僕たちの思う幸せを、ナターシャちゃんに押しつけることはできない。ナターシャちゃんの幸せが 何なのかは、ナターシャちゃんの心に聞くしかないんだよ。ナターシャちゃんは どうしたいのか」
「ナターシャは何も憶えていない。ナターシャの中にあるのは、俺と出会ってからの――」

氷河の それは、『だから、ナターシャは俺の許にいるべきだ』という訴えだったのか、『そんなナターシャに どちらかを選ばせることは、俺に有利すぎて 卑劣なのではないか』という遠慮(もしくは傲慢)だったのか。
その いずれであっても、その いずれの意図もなかったとしても、それは紛れもない事実だった。
「うん。今のナターシャちゃんの中にあるのは、氷河と出会ってからの幸せな思い出だけだね。ナターシャちゃんは氷河と出会ってから ずっと……いつだって幸せだった」

それは 間違いない。
氷河に出会ってから、ナターシャは いつも 本当に幸せだった。
パパの愛情を信じ、大好きなパパと一緒にいられる幸せな少女だった。
だが、それは ナターシャが“美幸”だった頃も そうだったのかもしれない。
そして、これからのナターシャの幸せは、ナターシャが選ぶものの中にしかないのだ。
何も知らず、思い出さずにいることがナターシャの幸福か、真実を知ることがナターシャの幸福か。

「大矢さんの娘さんの美幸ちゃんは、法的にも社会的にも既に亡くなっていて、だから 今の大矢さんは 法的にも社会的にも、ナターシャちゃんに対して何の権利も義務もない。それは、本当は氷河も同じ。そういう意味では、大矢さんと僕たちは同じ位置にいる。違うのは、僕たちの愛情は生きているナターシャちゃんに向けられていて、大矢さんの愛情は、もしかしたら もう、“生きている美幸ちゃん”ではなく“死んでしまった美幸ちゃん”への愛情に変わってしまっているのかもしれないっていうことだけ」

何も知らず、思い出さずにいることがナターシャの幸福か、真実を知ることがナターシャの幸福か。
今 ナターシャを愛し、ナターシャが愛している人と共にいることが ナターシャの幸福か、かつてナターシャを愛し、ナターシャが愛していた人との愛を蘇らせることが ナターシャの幸福か。
血の繋がりというものは、人間の幸福に どれほどの力を持っているものなのか。
ナターシャの未来の幸福は、ナターシャが自分の意思で選び取らなければならない。
ナターシャ以外の人間は、それを決めることはできないし、決めてはならない。
瞬は大矢ゆかり親子とナターシャの対面の場を設けることにした。



それが 食事会や お茶会ではなく、某県某梨園での梨狩りになったのは、その梨園が 地元のバーテンダーと共同開発した和梨のリキュールを専売しているからだった。
リキュールの仕入れのついでに 家族サービス。
木に生っている果実をナターシャに見せたい瞬も その計画に賛成し、彼等は 以前から梨狩りの予定を立てていたのである。

「もし、おつらくなければ……今週末、梨狩りに行く予定なんです。ご一緒しませんか。貴幸くんと お母様も」
連絡先を聞いていた大矢夫人に連絡を入れると、彼女は短い沈黙のあと、
「ぜひ」
と、瞬の誘いに応じてきた。






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