瞬が一人でいる時には さほどでもないのだが、氷河といると どうしても人の目を引いてしまう。
その日の待ち合わせ場所だった、アテネ近郊のリマナキャの海岸でも、氷河は多くの人間の視線を その身に集めていた。
氷河が目立つのは、彼の容姿からして奇異なことではないし、そのこと自体は――それだけなら――瞬に 特段の不都合をもたらすことではない。
だが、氷河と一緒にいることで、人々の好奇の目が 彼の連れにまで向けられるのは、瞬には 極めて都合の悪いことだった。
自分の存在を 人に認識されることを、瞬は 極力 避けなければならなかったから。
瞬は、目立たないための術を十二分に心得ていたし、実際 そのように振舞ってもいたのだが、氷河と一緒にいると、周囲の人間は 瞬もまた特別な人間だということに気付いてしまうらしい。
一般人に関心を持たれることは、瞬には 甚だ迷惑なことだった。

だから、その日、瞬が氷河に、
「氷河は……どこかの国の王子様なんじゃないかっていう推測が あちこちで飛び交ってるみたいだけど、そうなの?」
と尋ねたのは、決して氷河の“正体”を探ろうとしてのことではなかった。
行く先々で衆目を集め、揣摩臆測の雨を降り注がれるのは、氷河にも愉快なことではないだろうから、そういった状況を打破したい。
人々の好奇の目に さらされることなく、二人が共にいられる状況を作りたい。
より率直に言えば、目立ちたくない。
そのための策を講じるための、いわば呼び水として、瞬は その話題を口にしたにすぎなかった。
だからこそ、
「だったら、どうするんだ。取り入って、何らかの利益を得ようというのか。それとも、もう会わないのか」
と、冷ややかな口調で 突き放すような答えが氷河から返ってきたことに、瞬は衝撃を受けたのである。

もし氷河がオスマン帝国のスルタンだったとしても、自分の正体を余人に知られたくないのなら、嘘でもいいから『違う』と言えばいいだけなのに。
嘘をつきたくないのなら、笑って ごまかし、その話を続けなければいい。
瞬自身、自分の正体を詮索されては困る身、氷河に 執拗に食い下がる気はない。
氷河が 絶対に自分の正体を知られたくないと思っているのなら、自分の発言が無視されても、はっきり『そんな話はしたくない』と拒まれても、瞬は一向に構わなかった。
だが、『取り入って、何らかの利益を得ようとしているのか』とは。
そういう人間である“可能性がある”と思われているだけでも――それは、瞬には耐え難いことだった。

侮辱されたと思うわけではない。
腹が立つわけでも、悲しいわけでもない。
ただ 氷河に そんな疑いを少しでも抱かれていたことが、あまりに思いがけなくて、瞬には耐えられなかったのである。
そんな卑俗な勘繰りをする人を、自分は なぜ“特別な”人だと感じていたのか。
瞬は、数分前までの自分の気持ちが まるでわからなかった。

「もう会いません。さようなら」
短く言って、すぐに氷河に背を向ける。
氷河は、瞬が 彼から離れる最初の一歩を踏み出す前に、瞬の手を掴んでいた。
「冗談だ、本気にしないでくれ!」
たとえ冗談であっても、許せる冗談と 許せない冗談がある。
――と反駁する時間をさえ、氷河は瞬に与えてくれなかった。
「すまん。ギリシャに来てから、そういう輩ばかりで うんざりしていたんだ。すまない。許してくれ。おまえが 身分や地位を気にする人間でないことはわかっている」
「……」

氷河の言う通り、瞬はそんなものは気にしていなかった――否、気にしてはいた。
氷河が そんな面倒な立場の人間でなければいいと 願っていた。
その願い自体、意味のないものだということは わかっていたのが。
どちらにしても、二人が いつまでも一緒にいられるわけがないのだ。
氷河がロシアの皇太子やスウェーデンの王子でなくても――たとえば ごく普通の旅行者でも――二人は住む世界が違う。
氷河が王室や皇室の人間なのであれば なおのこと、二重の意味で、二人は住む世界が違っていた。
それは わかっていたのに、会わずにはいられない。
氷河に『来い』と言われれば、そこに 行かずにいられない。
そして、氷河に『許してくれ』と言われれば、瞬は彼を許すことしかできなかった。






【next】