瞬は、自分の心が、自分でも よくわからなかったのである。
氷河が高貴な身分の人間であっても、高い地位にある人間であっても、そんなことは 瞬にとって どんな価値もなく、むしろ 不都合でしかなかった。
氷河は 特段 高潔な人格者というわけではなく、卓越した寛恕の心の持ち主でもない。
不愉快な人間には 普通に腹を立てるし、卑俗な勘繰りもする。
少々 直情径行の気味もあった。
感情表現は下手で、ほとんど不器用の域。
行き当たりばったりで、無謀なところもある。
その際立った美貌以外は、ある意味では、ごく普通の人間だった。

社会的欲はなく、不正を憎み、激情的で攻撃的。
その性向を自覚しているのか、冷静であろうと心掛けている――心掛けてはいる。
そして、冷静な人間であることに失敗し続けている。
瞬には誠意をもって接してくれていたし、それは一途と言っていいほどだったが、好意を抱けない人間に対しては驚くほど冷淡なところもあった。
氷河は、欠点も美点もある ごく普通の愛すべき人間で、完全無欠の超人ではない。
そんな氷河に、なぜ これほどの離れ難さを感じるのか、瞬は 本当に自分の気持ちが わからなかったのである。

“許してもらう”ことの代償を支払いたがる氷河に、瞬が、
「僕はただ、氷河と一緒にいると目立つから、人目につかないように会う方法はないかって、氷河に相談しようとしただけだったんだよ」
と告げると、彼は、
「そんなことは簡単だ」
と答えて、瞬を、砂浜のないリマナキャの海岸の岩陰に引っ張っていった。
そして、
「ここなら、誰の目にも触れない」
と、得意げな表情になる。

「そういう、一時的なことじゃなくて――」
『これからも ずっと』
言おうとした言葉を、声にする直前で呑み込む。
『これからも ずっと』とは、いつのことなのか。
いつまでのことなのか。
これからも ずっと、二人が二人で い続けることは不可能なことなのに。
一時しのぎでしかない氷河の この対応は正しいのだ。

自分たちには“今”しかない。
“今”しかない二人には、ここは最適の隠れ家なのだ――。
瞬が そう思い直して、無理に微笑を作ろうとした時、氷河の唇が瞬の唇の上に下りてきた。

瞬は驚いたのである。
もちろん 驚いた。
紺碧の海は美しいが、武骨な岩が剥き出しで海に向かって突き出し、野趣が強すぎて観光客には不人気らしいリマナキャの浜。
かのアンドロメダ姫が海獣への生贄として繋がれた岩場と言われれば、容易に その言を信じてしまえるような その場所は、完璧に他の観光客たちの目を遮る死角になっていた。
そういう意味で、瞬は人目を気にする必要はなかったのだが、人目に触れる心配がないから 冷静でいられるというものではない。

瞬は もちろん驚いた。
何より、氷河のキスを不快に感じない自分自身に。
とはいえ、まさか ここで自分の感性に正直に うっとりするわけにもいかず、かといって 氷河の胸と腕から逃げることは なおさらできず――瞬は 懸命に自分の混乱を氷河に気取られまいとしたのである。
必死に 冷静を装って、瞬は氷河に尋ねた。
「氷河、もしかして、僕のこと 女の子だと思ってる?」

名は名乗ったが、性別は明言していない。
そういうことなのかと 瞬は案じたのだが、氷河は 薄い微笑を浮かべて、左右に首を振った。
「最初は海のニンフか花のニンフだと思ったな。二度目に会った時、そうではないことに気付いた。こんなに可憐な男子がいるというのは驚きだったが」
「思い違いをしているのでないなら、いいんだけど……」
「思い違いをしているのでないなら、いいのか?」
言質を取ったと言わんばかりに嬉しそうに、氷河がまた瞬にキスをしてくる。
さすがに二度も氷河の身勝手を許すわけにはいかない。
瞬は彼の胸を押しのけようとした。
が、氷河は 瞬の身勝手を許してくれなかったのである。

「思い違いをしているのでないなら、いいんだろう?」
ふざけたことを言って、その唇を瞬の首筋に下ろしてくる。
瞬の襟足を掴むように触れている氷河の手が熱い。
氷河は 本気で そのつもりになっているらしい。
瞬は さすがに、それ以上 彼の身勝手を許すことはできなかった。

「氷河。悪ふざけは やめてください」
「俺は ふざけてなどいない」
それは わかっている。
かっているから、瞬も 本気で彼を止めようとしているのだ。

「こんなところで――」
「アンドロメダ姫がペルセウスと結ばれたのも、こんなところだったと思うぞ」
「な……何を言っているの」
「でなければ、仮にも一国の王女が、その時にはまだ 王でも王子でもなかった、会ったばかりの ただの命の恩人の妻になどなるか」
「氷河、そういう冗談は……」
「幸い、おまえは アンドロメダ姫と違って、無粋な鎖にも繋がれていないし、海獣の邪魔が入ることもないだろうし」
「氷河……!」
「俺は おまえを愛しているし、おまえも 俺を愛してくれているだろう?」
「え……」
最初に会った時も、二度目に会った時も――出会うたびに いつも、瞬は氷河に驚かされてばかりいたが、彼の言動に今ほど驚かされたことはない。

違う世界の住人だということは わかっているのに、会わずにいられない訳。
『来い』と言われれば、そこに 行かずにいられない訳。
『許してくれ』と言われれば、許すことしかできない訳。
命をかけて仕えるべき神でもなく、欠点のある“普通の”人間にすぎない氷河と、なぜか離れ難く感じる訳。
瞬自身、解けずにいた その謎の答えを、小さな貝殻でも手渡すように気軽に ぽんと氷河に手渡されて、瞬は あっけにとられた。

そうだったのかもしれない。
おそらく そうなのだろう。
それ以外の答えはないように、瞬にも思われた。
だが、それでも――。

「でも、いやです」
それでも、そんなことができるわけがない。
「なぜだ」
身勝手な氷河が、心底から その訳がわからないと言いたげな目で、瞬に問うてくる。
彼の左の手は瞬の腰を抱き、その右の手は瞬の髪を まさぐっている。
瞬は気が遠くなりそうだった。
しかし、瞬は、どうあっても ここで気を失ってしまうわけにはいかなかったのである。
「だって、この岩場、潮が満ちてきたら、絶対 海水に浸っちゃう……」
氷河の手の熱さに耐えて、何とか意識を保ったまま 瞬がそう訴えると、氷河は、恋を失ってばかりの太陽神ならば決して発することがないだろう明るい笑い声を、リマナキャの海岸に響かせた。






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