おそらく 自分は このためにアテネの町を出ることができずにいたのだと、瞬は思った。
ロシアの皇太子なのか、スウェーデンの王子なのか、それとも ただの美しい旅行者なのか。
揺れる瞬の心も知らず、氷河は 瞬の隣りで満足そうに穏やかな寝息を立てている。
彼は、彼が その胸の下に組み敷き、思うさま愛撫し、貫き、その中に熱い欲望を吐き出した相手が、何者であるのかを わかっていない。
その気になれば、自分を犯している相手の命を一瞬で消し去ることもできる人間の心身を、氷河は勝ち誇って貪り尽くしたのだ。

ここは、氷河が以前から投宿していたホテルではなく、差し迫った問題を解決するために せっかちに飛び込んだホテルの部屋のようだった。
『連れの具合いが悪くなって』と適当なことを言う氷河に抱きかかえられて、この部屋に運ばれたことは おぼろげにしか憶えていないが、部屋のドアを閉じてからのことは、瞬も明瞭に記憶していた。
具合いの悪い人間に 決してすべきではないようなことを、氷河は ためらいなく実行した。


言葉でも行動ででも、瞬は彼を拒まなかったのだから、氷河が それを瞬の同意と取り、二人の間に合意が成ったと考えても、それは おかしなことではない。
氷河がしたことは、ゆえに、暴力でも無理強いでもない。
とはいえ、“合意”に至るまでの氷河の振舞いは 少々強引に過ぎていた――と思う。
彼は彼が欲しいと思った人間に 自分が拒絶されることを考えてもいなかった――ように、瞬には感じられた。

氷河の その振舞いや思考は、どう考えても、人を自分の意に従えることに慣れ、人に愛されることに慣れている人間のそれである。
ロシアの皇太子、スウェーデンの王子。
その いずれでなかったとしても、氷河は それに類する地位と身分を有する人間なのだろう。
そういう責任ある立場にある青年が、ギリシャへの旅行ブームを口実に お忍びで他国にやってきて、様々の責務から解放された自由を満喫し、恋のアバンチュールに身を投じた。
これは、そういう状況なのだ。

無論、瞬は氷河を“軽率”“無責任”等の言葉を使って責めるつもりはなかった。
そんな権利を、瞬は有していなかったから。
おそらく 自分は この先、人を恋することは二度とないだろう。
恋した人を抱きしめ、恋した人に抱きしめてもらうという 夢のような経験は、今しかできない。
今 氷河に抱きしめてもらわなければ、自分は そんな喜びを知らぬまま、人生を終える。
今が最後の機会。
そのために、僕は氷河に出会った。
瞬は――瞬こそが、この恋を永続させる意思を持たずに、その心と身体を 氷河の腕の中に投じたのだから。
無責任な恋人は、瞬の方だった。

恋した人を抱きしめ、恋した人に抱きしめてもらうという、夢のような経験をした。
瞬に そんな夢を見せてくれた この世界は、命をかけて守る価値のある世界になった。
だから。
瞬は もう、この世界を出なければならなかった。


氷河を目覚めさせぬようベッドを抜け出し、身仕舞いを整える。
窓の向こうのアテネの町は 夕闇に包まれ始めている。
このまま 闇に紛れて 投宿しているホテルに戻り、必要なものだけを持って、瞬は この世界を出るつもりだった。
静かに、ひっそりと、氷河が目覚めぬうちに。

瞬の その計画を邪魔したのは、
「部屋を出ていく前に、眠っている俺にキスをするものじゃないか、普通」
という、眠っている(振りをしていたらしい)氷河の声だった。
「そうしたら、俺は おまえをベッドに引きずり込んで、もう一度 おまえの服を剥ぎ取るところから始めるつもりだったのに」
こんな時にも、氷河は、冗談なのか冗談でないのかの判断が難しいことを 真顔で言う。
この世界を出る決意を済ませていた瞬は、今日は 戸惑わなかった。

「僕たちは、きっと、もう会わない方がいいんだよ」
『僕たちは もう会えないのだ』と、本当のことは言えない。
『僕は 氷河とは違う世界の住人になるのだ』とは。
決して 氷河のために身を引く善良な庶民を演じるためではなく、真実を告げることができないから、瞬は そういう言い方をした。
瞬のキスを諦めたらしい氷河が、いかにも不承不承といったていで、寝台に上体を起こす。

「言っておくが、俺がロシアの皇太子だのスウェーデンの王子だのというのは、根も葉もない噂だぞ。俺が本当に どこぞの国の王子だったとしても、俺は そんな身分は さっさと捨てる。おまえと一緒にいるためになら、何もかも捨てる」
冗談なのか そうではないのかの判断に迷うようなことを 真顔で言う氷河に、瞬は――瞬もまた、真顔で尋ねた。
「氷河は 何もかも捨てられるの?」
「……」

氷河が答えに詰まる。
嘘をつきたくないから、無責任なことは言いたくないから、答えない。
それが、本当に真面目になった時の氷河の態度なのだ。
氷河に罪悪感を抱かせないために、瞬は微笑した。
「いいの。僕も捨てられないから」
それでいいのだと、思う。
人が恋をするたび、恋のために すべてを捨てていたら、世界の秩序は崩壊してしまう。
瞬は許すために微笑んだつもりだったのだが、氷河の目に、それは諦めの表情に映ったらしい。
彼は、一瞬 むっとした顔になり、だが すぐに気遣わしげな目で 瞬を見詰めてきた。

「おまえは何者なんだ? もしかして、おまえこそが、どこぞの国の――」
「たとえ そうだったとしても、身分くらいなら、僕だって、氷河のためになら捨てられるよ」
「身分以外に、捨てられないものがあるのか?」
もちろん、ある。
恋を捨てることはできても、それだけは捨てられないもの。
恋を諦めても、守りたいもの。
それは もちろんあった。
だが、それが何なのかを、氷河に言うわけにはいかない。

「肉親? 地位? 責任? まさか、俺とのことは酔狂で、他に恋人が――」
それは さすがに聞き捨てならない、憶測である。
瞬が無言で 氷河を睨むと、氷河はすぐに謝罪してきた。
「すまん」
その素直な様子が、ひどく可愛い。
氷河は、完全無欠の全知全能神でもなければ、命をかけて守護しなければならない神でもなく――まさに 愛すべき“人間”だった。
その愛すべき人間が、瞬に訴えてくるのだ。
「瞬。すべて捨てる。すべて捨てるから、俺の側にいてくれ。二人で逃げよう。この世界から」
「……」

愛すべき人に、恋をした。
恋した人に、同じ思いを返してもらった。
恋した人を抱きしめ、恋した人に抱きしめてもらった。
その人が、恋のために すべてを捨てると言ってくれた。

この世界は、氷河の生きる世界。
瞬にとって、命をかけて守るべきものになった。
瞬には、もう迷いも ためらいもなかったのである。
氷河に すべてを捨てさせることなどできるわけがない。

「氷河。ありがとう」
氷河に掴まらないために キスはせずに、瞬は その部屋を出た。






【next】