氷河が 城戸邸のジムの入り口に、見たところ8、9歳の子供の姿を見い出したのは、アンドロメダ座の聖闘士と白鳥座の聖闘士による冷戦が勃発してから丸々3日が過ぎた昼下がり。
この城戸邸にも、その歳頃の子供たちで あふれていた時期はあったが、それは今から7、8年も前のこと。
現在、城戸邸には10歳以下の子供はいない。
そして、幼い子供が迷い込めるほど、城戸邸のセキュリティは甘くない。
いったい なぜ、こんなところに、こんな小さな子供がいるのだと、氷河は訝ったのである。
ともかく 掴まえて事情を確かめよう。
そう考えて、氷河は、母屋に移動しようとしている その子供を呼びとめた。

「そこのガキ」
『どこから来た』と『どこへ行く』
この場合、どちらの問いかけの方が適切なのか。
氷河が その二択の結論を出す前に、子供は その場に立ち止まり、氷河の方を振り返った。
「なにっ」
軽い既視感。
身長は氷河の半分ほど。
どこかで見たことのある顔。
ふてぶてしく、世の中の すべてに憤っているような瞳。
だが、そんなはずはない。
驚きで、声と言葉を失った氷河の顔を、子供が見上げてくる。
先に口を開いたのは、その子供の方だった。

「おまえは、もしかして俺なのか?」
「む……」
そう問うてくるところを見ると、やはり そうであるらしい。
この ふてぶてしい目をした子供は、白鳥座の聖闘士になる前の氷河自身らしかった。
『おまえは 俺なのか』という奇妙な質問を、ごく自然に 口にすることができるところを見ると。
彼は 自分が自分より年上の自分を対峙していることを、さほど不思議なこととは思っていないのだろう。
であればこそ彼は、さほど混乱した様子もなく、
「なんか、可愛くない顔してる」
と、毒づくことができたのだ。
クロノスが、また何か いたずらをしている。
氷河は そう察した。

「自分は可愛いつもりか。だいいち、目上の人間に“おまえ”とは何だ、おまえとは」
むっとして、氷河が子供の無作法を責めると、彼は 怖気おじけたふうもなく、
「俺の顔は可愛くなくてもいいんだよ。わざわざ見ようとしなきゃ、俺には俺の顔は見えないんだから」
と反抗的に言い返してきた。

この可愛げのなさは、間違いなく自分。
と、不本意ながら、氷河は認めないわけにはいかなかったのである。
大人になった氷河自身、瞬が可愛ければ 自分には可愛げなど不要だと思い、瞬が 笑顔でいてくれれば、自分が笑う必要はないと思っていた。
そんな自分のスタンスを間違っていると感じたこともなく、不都合を覚えたこともなかったのだ。
確かに、この子供は自分――幼い頃の自分。
自分の進歩成長のなさに、氷河は 自分で呆れてしまったのである。

それは、どうやら、幼い氷河も同様だったらしい。
もっとも、彼は、最初から 自分に多大な期待を抱いてはいなかったらしく、すぐに気を取り直したように、大人の氷河の顔を見上げてきた。
「てことは、俺は聖闘士になれたんだ」
彼が 失望の中から すぐに気を取り直すことになったのは、そのことに気付いたからだったのだろう。
その推察は正しいが、聖衣を身につけていない氷河を見て、彼は なぜ そう思ったのか。
なぜ 彼は その事実に気付くことができたのか。
小宇宙を燃やすどころか、小宇宙を感じ取ることすらできそうにない幼い自分の判断力を、氷河は訝った。

「なぜ そう思う」
「でなきゃ、俺が おまえに会うわけないからな」
答えになっていない答えを返して、幼い氷河は、未来の自分の顔を 睨むように 見上げてきた。
「聖闘士になれば、普通の人とは違う特別な力を使えるようになるんだろ。その力で やってほしいことがあるんだ」

もしかすると彼は、自分が未来の世界に飛んだのではなく、自分の世界に未来の自分が飛んできた――と思っているのかもしれなかった。
いずれにしても、これは 通常の物理法則上では起こり得ない事態。
今が過去か未来なのかということは、大した問題ではないだろう。
重要なことは、聖闘士になる前の幼い氷河と 聖闘士になった氷河が出会ったという、その一事なのだ。

「貴様は、聖闘士の特別な力で 何をしてほしいんだ」
まさか、聖闘士になった自分に、『マーマを生き返らせてほしい』と頼むつもりではないだろう。
それが 叶ってはならない願いだということは、彼も わかっているはずである。
だが、あの頃の自分に、他に どんな願いがあったろう。
氷河は、それが思い出せなかった。

幼い氷河は、幸いなことに(?)、そんな馬鹿な夢を見ているのではなかった。
特別な力を持つ聖闘士に、幼い氷河が叶えてもらいたい望み。
それは、
「俺から、マーマの記憶を消してほしい」
だった。
自分の願いを叶える力を持っている(かもしれない)人に 自分の願いを願う時、その人間は 大抵は 心を弾ませているものだろう。
だが、幼い氷河は、全く嬉しそうでも楽しそうでもなかった。
彼は、ただ必死。ただ懸命。
氷河には そう見えた。

そして、幼い氷河の願いは“母を失った子供”の願いとしては、奇異なものに思われたのである。
普通は、幼い子供は、自分に欠けているものを与えてくれと願うものだろう。
普通は、自分を幸福にするための願いを願う。
だが、幼い氷河の その願いは、どう考えても、彼に益をもたらさない願いだった。

「憶えていると、つらいのか」
自分は、母の記憶を つらいと感じたことがあっただろうかと、氷河は幼い自分の願いを訝った。
母を失ったことは悲しく、母の死を招いた運命を憎み、自身の無力を腹立たしく思ったことは幾度もあったが、母の記憶は 常に自分を慰め 支えるものであった――ような気がする。
それを消し去ることを、なぜ幼い氷河は望むのか。
そもそも氷河は、幼い頃に そんな望みを抱いた記憶がなかった。

氷河が尋ねると、可愛げのない氷河は、可愛げなく――ほとんど逡巡なく首を左右に振った。
それから、ふいに ひどく神妙な顔になる。
「瞬は、瞬のマーマのことを憶えてないんだ。なのに、俺は ついマーマの話をして、瞬を悲しませてしまう。瞬が悲しそうな顔になるのを見て、俺は 自分がまたドジを踏んだことに気付く。俺は いつもそうだ。けど、マーマのことを忘れてしまえば、俺は そんなドジ踏まなくなるだろ?」
「……」
瞬に悲しい顔をさせたくない。
瞬に悲しい顔をさせる自分でなくなりたい。
それが可愛げのない氷河の望みであるらしい。

努力して――自分の力で、自分を矯正しようとしない点は 少々――否、大いに――問題だが、彼は迅速と完璧を求めているのかもしれない。
少なくとも 氷河は、幼い氷河の望みの目的を誤りだとは思わなかった。
だが――。
「忘れていいのか」
氷河が問うと、幼い氷河は、一瞬 きつく唇を噛みしめた。
それは、やはり、彼には つらいことであるらしい。
しかし、彼は 長く氷河を待たせることなく、彼の覚悟を未来の自分に伝えてきた。
「瞬が悲しい顔をしなくなるなら、いい」

つらそうにではあったが迷いなく、幼い氷河が そう答える。
幼い氷河は、瞬に悲しい顔をさせてしまう自分の迂闊に、よほど腹を立てていたのだろう。
瞬が可愛ければ 自分には可愛げなど不要だと思い、瞬が 笑顔でいてくれれば、自分が笑う必要はない。
そう思っている人に 悲しい顔をさせてしまう、自分の愚かさ。
普通の人とは違う特別な力を持つ聖闘士なら、瞬に悲しい顔をさせる自分を消してくれると、そう信じて、彼は ここに来たのだ。
それは 自分自身だというのに――氷河は、幼い氷河の見上げた覚悟に感心したのである。
そして、氷河は、幼い頃の自分が どんなに瞬を好きでいたのだったかを思い出した。

「おまえは、忘れずに乗り越えなければならん」
顔は可愛げがないが、なかなか健気ではないかと思いながら、氷河は 幼い自分に告げた。
幼い氷河から、可愛げのない答えが返ってくる。
「それができないから、聖闘士の おまえにどうにかしてもらいたいんだよ!」
「おまえは馬鹿か」
本当に可愛くない。
可愛くないが、それは仕方がないのだ。
氷河は、“可愛い”成分を、いつも瞬に求めてきた。
自分に そんなものを期待したことはなかったし、今も期待していないのだから。

「おまえこそが馬鹿だ。瞬は絶対に、自分のために おまえがマーマの記憶を消すことなど望んでいない」
「でもさ」
「おまえの瞬に確かめてみろ。瞬は絶対に そんなことを望んでいないから。俺が保証する。俺は聖闘士だぞ」
「なに偉そうに言ってんだよ。聖闘士でも 何でも、俺の言うことなんか、信用できるか!」

幼い氷河は、なかなかの洞察力と判断力を有しているようだった。
幼い自分の賢明に、氷河は唸り、そして、大いに満足したのである。
誰を信じるべきか、誰を信じてはならないか。
それが わかっているなら、この可愛げのない子供は、己れの人生を大きく誤ることはないだろう――と。

「なら、瞬の優しさと強さを信じろ。瞬は、おまえが つらい思いをしたり、悲しい思いをすることを、自分の つらさや悲しさより、つらく悲しく感じる人間だ。おまえが そんなこともわからない馬鹿なら、俺は 金輪際 おまえとは縁を切るぞ」
「おまえに縁を切られたって、俺は痛くも痒くもないやい!」
「それは そうだろうが……」

それは そうだろうが。
幼い氷河は、自分が誰を信じるべきか、誰を信じてはならないかを わかっている。
瞬の優しさと強さを信じて――幼い氷河は、いかにも 不承不承といったていで 頷いた。






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