「いったい なぜ、どうして氷河なんかと……! 瞬はいったい何を考えているんだ!」 長方形の卓に運ばれてきた天津飯を、一輝は 僅か30秒で半分に減らした。 彼は、怒りを食欲に紛らそうとして一気に掻き込んだのかもしれなかったが、天津飯が腹の中に収まったからといって、怒りまでが腹の中に消えてしまうわけではない。 たとえ そんなことが可能であっても、怒りというものは 腹の底から 次から次に新たに生まれてくるものなのだ。 某中華街の某々中華料理店。 天津飯はこの店の人気メニューだが、実は中華料理ではない。 それは日本人が日本で考案した“中華”料理である。 中国の天津に行っても 本場の天津飯を食べることはできないのだ――という衝撃の事実を 紫龍に教えてもらった時、星矢は しみじみ 世の中は矛盾に満ちていると思ったものだったが、天津飯は さておいて。 「おまえ、飯を食いながら怒るのをやめろ。文句があるなら、氷河と瞬に直接 言えばいいだろ! 言っとくけど、そんな文句言われたって、俺たちには何にもできないからな!」 一輝は 料理の味を全く味わっておらず、かといって、命を永らえるために食物を摂取しているのでもない。 ただただ 怒りの捌け口として、料理を利用している。 それは料理への冒涜だろうと、かなり本気で 星矢は思っていた。 その星矢の隣りの席で、紫龍も 一輝の食いっぷりに呆れている。 「自分から怒りの種を仕入れに行って 腹を立てていたら、世話はない。瞬に迷惑がかかるとは考えなかったのか。いかにも その筋の者としか思えない その風体で、氷河たちの近辺の聞き込みをしてきた? 非常識もいいところだ。そんなに腹が立つなら、星矢の言う通り、氷河に直接 当たるべきだ。食い物に罪はない」 「ああ。おかげで、日本が危機的状況にあることが よくわかったぞ。俺が近付いていくと、男共は どいつもこいつも そそくさと逃げていって、俺の聞き込みに協力してくれたのは 女こどもばかりだった。一人、特殊なのもいたが」 一輝が 露骨に嫌そうな顔になる。 その“特殊な一人”に、一輝は いったい何をされたのか。 食事中もサングラスを外さない一輝の表情は窺いにくかったが、その特殊な一人を まんざら知らないわけでもなかった星矢と紫龍には、おおよその察しがついた。 おそらく一輝も、“日本に危機的状況を招いている男共”と同じことをしたのだ。 星矢と紫龍が何のコメントも付してこないことに気まずさを覚えたらしい一輝が、わざとらしく ごほごほと天津飯にむせた体を装って、話を本筋に戻す。 「そもそも この事態は、氷河に仕組まれて企んで生じた事態だ。諸悪の根源である氷河に 直接 文句を言ったところで無意味だろう」 「なら、瞬に言えばいいじゃん。おまえは、要するに、瞬が氷河との同居をやめれば、それで満足なんだろ? 氷河が何て言ったって、瞬が引越す気になれば、氷河にはどうすることもできないんだから、瞬を直接 説き伏せればいいじゃん」 「――」 全くもって理に適った星矢の意見に、一輝が沈黙する。 黒いサングラスの奥で 視線をあらぬ方向に泳がせて、一輝は 星矢の言を聞かなかったことにした。 そして、さりげなく(一輝当人は そのつもりらしい)、話の方向も微妙にずらす。 「氷河の奴は、瞬をものにするために、あの子供を引き取ったのだとしか思えん」 一輝は、瞬に直接 文句を言うつもりはない――言えない――らしい。 一輝は、最愛の弟に、思い遣りのない兄、弟離れができない兄、弟の意思を尊重しない過干渉の兄と思われたくないのだ。 「瞬に直接 文句を言う勇気もないなら、最初から 大人しくしてればいいのに……」 全くもって理に適った星矢のコメントを、一輝は もちろん、またしても聞こえなかった振りをした。 「瞬を ものにするためも何も、同居していなかっただけで、あの二人は――」 「人と人の付き合いには、節度というものがあるべきだ。たとえ仲間同士であっても――いや、仲間同士であればこそ、なお一層 節度を保つことが大事なんだ。だというのに、あれは何なんだ! 氷河の奴、すっかり家族気取りで!」 理に適ってはいないかもしれないが、紛う方なき事実を語ろうとした紫龍の言も、一輝は即座にシャットアウトした。 聞こえなかった振りをしても、聞かずに済むように人の口に蓋をしても、事実は事実で 変えようがないというのに、一輝はどうあっても“事実”への抵抗をやめる気はないらしい。 一輝の目には、成人した弟が 今でも 兄が守ってやらなければならない小さな泣き虫の子供に見えているのだろうか。 あるいは、そうであってほしいと思っているのか。 そのくせ、いつも弟を放っておく一輝の 理屈に合わない言動に、星矢は溜め息を禁じ得なかった。 「気取りじゃなくて、家族なんだよ」 「いいではないか。もともと家族というものは、他人同士が作る 新しい単位だ。うちの春麗のように、『いつ伴侶が死んでも、その覚悟ができている』というパートナーは そうそう見付かるものではない。そういう人間がいたとしても、だから愛せるとは限らない。氷河は 残される者の悲哀を知っているし、瞬は無責任なことのできない人間だ。そして、ナターシャは――おそらく、氷河以外の誰かと家族になることは不可能な子供だ」 「――」 「氷河と瞬とナターシャは、考えようによっては理想の家族、あの家庭は 理想の家庭なんだ。他に どうにもなりようのない家族とも言える」 「紫龍。貴様、うるさい」 反論ができなくて、ついに一輝は拗ね始めた。 瞬より はるかに子供じみているのに、兄気質。 一輝は 決して認めないだろうが、彼は氷河と大同小異の“ややこしくて 面倒くさい男”だった。 星矢としては、むしろ瞬に同情せずにはいられなかったのである。 そんな“ややこしくて 面倒くさい男”二人に懐かれて、瞬は子供の頃から苦労が絶えなかった。 俗に、『若い頃の苦労は買ってでもせよ』という。 瞬が 誰よりも寛大で 強靭な忍耐力を備えた大人なのは、どう考えても、この“ややこしくて 面倒くさい男”たちのせいだった。 「おまえ、瞬可愛さに、ナターシャからマーマを奪うつもりなのかよ。おまえに、んなことができるのかよ?」 「俺に そんなことはできないだろうと考えて、現状に あぐらをかいている氷河が許せんのだっ」 一輝にしてみれば、氷河と瞬とナターシャが家族として暮らしている現状は、瞬とナターシャを人質に取られているようなものなのかもしれない。 清らかな弟と 無垢な幼な子を人質に取られ、その二人に守られている卑劣な男 氷河。 それが、一輝の目に映っている現実なのかもしれなかった。 「うん……まあ、氷河が ずるい奴なのは確かだけど……」 その点は、星矢も完全に否定できなかったのである。 氷河の守られ気質は、一輝の兄気質同様、本人の意思や努力では払拭することのできない、一種の才能。ほとんど 本能のようなものなのだ。 「でも、多分、今の氷河は、そうすることがナターシャの幸せのためだとなったら、瞬と別れることもすると思うぜ。自分のことより、瞬のことより、ナターシャ第一。氷河は、その覚悟で ナターシャを引き取ったと思うし、だから、俺たちは 氷河の仲間として、氷河の子育てに力を貸してやるべきで――」 「何が覚悟だ。奴は 絶対に、そんな覚悟をしてナターシャを引き取ったんじゃない。俺は、自信をもって断言できる。奴は、目の前で泣いてる子供を放っておくことができず、感情のまま、衝動的にナターシャを引き取ったんだ。おかげで、瞬が氷河の衝動の尻ぬぐいをする羽目になる。奴は いつもそうだ。マー……何が、マーマだ! 俺の弟は男子だぞ! それも、この地上世界で五指に入る強者だ!」 「優しさでも五指に入る慈愛の聖母に育ってしまったのが、おまえの不運だったな」 紫龍が さらりと、一輝にとっては痛恨の育児ミスに言及する。 「くっそー……っ !! 」 一輝は、手にしていた陶器のレンゲを 粉々に握り砕いて、自身の不覚に悲憤の呻きを洩らした。 仮にも正義の味方たるアテナの聖闘士に、器物損壊の罪を重ねさせるわけにはいかない。 紫龍は、怒れる瞬の兄に、店の移動を提案した。 「これから氷河の店にでも乗り込んで、酒でも奢らせるか? やはり、天津飯では 恰好がつかないだろう」 瞬に直接 意見することはできなくても、氷河になら、言いたいことを言えるだろう。 そう考えての提案だったのだが、一輝は紫龍の提案を一蹴した。 「そんなことをしたら、奴は俺のグラスに毒を入れるに決まっている」 「まさか、そこまでは……」 入れても、せいぜいトウガラシくらいのものだろう。 自分の店で人死にがあったなら、氷河とて困るはずである。 「世界で五指に入る強さと優しさを兼ね備えた男。理想通りの弟に育って、よかったではないか。瞬は、尊敬する兄を見習って、ナターシャを立派に育て上げるに違いない」 「フカヒレラーメンとアワビのオイスターソース煮込み追加!」 いつのまにか 天津飯を綺麗に平らげた一輝が、オーダー追加。 「紫龍、ここは貴様の奢りだ」 褒め言葉が 鳳凰の逆鱗に触れることもある。 ここで問題なのは、自分の発言の何が一輝の逆鱗に触れたのか、瞬の兄の心の機微が全くわかっていない天秤座の黄金聖闘士の方だったかもしれない。 |