「悲しんでいる あなたを愛す――かあ」 秋は いよいよ深まり、謎も いよいよ深まる。 庭に面した窓際に置かれた籐椅子に身体を預け、すっかり葉を落とした木々の向こうに広がる空を 沈んだ様子で眺めている瞬を見やり、星矢は ほとんど意識せずに 竜胆の花言葉を呟いた。 星矢は、その気になって走り出すのが早く、走っている間の勢いも滅多に落ちないが、であればこそ、行く手に障害物が出現すると 見事に“当たって砕けて”しまうのだ。 その点、紫龍は、スタートダッシュも中間疾走も ほどほどだが、障害物の出現くらいで 走りを止めることはない。 障害物を取り除くなり、迂回するなりして、彼は走り続ける。 「花言葉は考えすぎなのかもしれないな。送り主も 知らなかったのかもしれない。花言葉というものは、どの花の花言葉も恋の告白に使えるようになっているし」 「え。それって、恋の告白なのかよ?」 星矢は そういうことは全く考えていなかった。 だから、そういう顔をした。 “そういうことは全く考えていなかった”星矢の顔を見て、紫龍が 呆れたように肩をすくめる。 そのリアクションが癪に障らなかったわけではないのだが――むしろ、大いに癪に障り、すぐさま反駁に及ぼうとしたのだが――その寸前で、星矢は思いとどまったのである。 花を贈って、瞬に恋の告白。 それは決して あり得ないことではないのかもしれない――と。 瞬には絶対に言えないが、当時の城戸邸で、瞬は 女の子の代わりのような存在だったのだ。 強さより優しさ、厳しさより温かさ、強固より柔軟、攻撃より防御、戦闘力より包容力、猛々しさより可愛らしさ。 瞬は、男子が 母に、姉に、妹に、恋人に求める要素を ふんだんに備えた、特異な存在だった。 「花言葉で恋の告白――ではなかったとしてもだ。俺たちが修行地に送られたのは、夏の終わり頃――秋が始まった頃で、野生の竜胆の季節には少々 早い時季だった。夏の花が まだ たくさん咲いていたのに、あえて竜胆。手紙の送り主は、何らかの意図があって 竜胆の花を選んだと考えるのが妥当だろう」 という推察を述べると、紫龍は いつものように室内を見まわした。 こういう時 彼が意味ありげな視線を送ることにしている男が 室内にいなかったので、視線を元の位置に戻す。 おそらく、瞬が その男の名を口にしたのも、その男が その場にいなかったからだったろう。 瞬は、仲間たちの方を振り返り、あまり自信はなさそうな声で、 「僕……あの手紙を僕にくれた人は 氷河なんじゃないかと思ってるの」 と言った。 「氷河ーっ !? なんでだよ!」 障害物に ぶつかって停止していた星矢が、瞬の仰天発言に出会って 足踏みを始める。 これまで少年探偵団に知らせていなかった新たな情報を、瞬が提供してくれるのではないかと、星矢は それを期待したのである。 残念ながら、瞬の答えは、 「何となく……だけど」 という、手掛かりにはなりそうもない代物だったが。 「そうであってほしいと、おまえが思っているだけではないのか」 責めるようにでも詰問するようにでもなく――紫龍が優しく問うた言葉にも、 「……そう……かもしれない」 瞬は、あやふやな返事を返してきただけだった。 「なんで氷河なんだよ?」 「星矢、野暮なことを言うな」 紫龍に たしなめられて、それが野暮な質問だということだけは、星矢にもわかった。 が、星矢には やはり、瞬が なぜ“そうであってほしい”と思うに至ったのか、そのあたりのことが まるで得心できなかったのである。 「でもさ、ガキの頃、あいつ、瞬のこと、いじめてなかったか」 「いじめてはいなかっただろう。素っ気なくしていただけで。氷河は、誰に対してもそうだった」 「そういう考え方もあるけどさ。あの頃、城戸邸にいたガキ共は、みんな瞬には優しくしてただろ。瞬は可愛かったし、優しかったし、なんつーか……城戸邸の、唯一の潤い的存在っつーか、やすらぎっつーか、まあ、ぶっちゃけ、女の子の代わりのアイドル的存在だったから、瞬は特別扱い。なのに、氷河だけが 瞬に素っ気なかった記憶があるんだよなー」 「それも一種の特別扱いだろう。瞬も気付いていたな?」 「……」 もちろん気付いていた。 気付いていたからこそ、瞬は“そうであってほしい”と思うことになったのだ。 「氷河は、素っ気なかったけど、いつも優しかったよ。あの頃は、トレーニングの成績が悪いと、罰があったでしょ。ご飯抜きとか、地下室に押し込められたりとか、ジムを一人で床掃除させられたりもした。僕、ご飯抜きや 床掃除は平気だったけど、真っ暗い地下室の中に閉じ込められるのが すごく恐かったの。僕、かけっこや器械体操とかは割と成績よかったんだけど、対戦相手のいる戦闘術が苦手で、僕が罰を受けるのは、いつも誰かと戦って負けた時だった」 「おまえ、俺や一輝と違って、反抗的じゃなかったもんな。俺や一輝は2日にいっぺんは罰を食らってたのに」 「ご……ごめんなさい……」 「責めてねーって。おまえが争い事を嫌いなことは知ってる。で、氷河がどうしたって?」 あの頃は、星矢や瞬の兄が罰を食らいそうになると、瞬が突然 泣き出し、おかげで辰巳の意識が 反抗的な子供たちの上から逸れる――ということが頻発していた。 そのせいで、罰を免れたことが、星矢は幾度もあった。 争い事が嫌いな人間には 争い事の嫌いな人間なりの対抗方法があるのだということを、星矢は 瞬から教えてもらったのである。 感謝こそすれ、瞬を責めるなど、星矢には思いもよらないことだった。 「氷河は……僕と戦わなきゃならない日には、怪我した振りしたり、雲隠れしたりして、いつも不戦敗してくれたんだ。氷河は、一輝兄さんとだって 五分五分に勝負できてたのに、僕にだけは全敗してるんだよ」 「まじかよ」 今になって知らされる衝撃の事実。 星矢は、本気で、腹の底から驚いた。 紫龍も、さすがに その事実には気づいていなかったらしい。 あの頃、城戸邸に集められていた子供たちには そんなことに気付いている余裕はなかった。 「一輝は気付いていたんだろうな。なるほど、奴が氷河を毛嫌いするわけだ」 「あの頃の瞬は、何かっつーと 兄さん兄さんだったし……。氷河が一輝と そりが合わないのって、てっきり 殺生谷の幻魔拳のせいなんだと思ってたんだけど、もっと長い歴史があったんだー」 「好きな相手が別の誰かばかり見ているんだ。氷河が不愉快になるのは致し方あるまい」 思わぬところで、思わぬ謎が解けてしまった。 それは 一つの成果だったが、問題が一つ。 問題とは 他でもない。 「でも、それは、氷河が瞬を好きだったことの状況証拠にすぎなくて、氷河が暗号文の送り主だったことの証拠にはならないだろ」 ということ。 この謎の解明は、言うなれば、殺人事件の犯人を突きとめるための捜査をしていた中で、容疑者の一人が電車の待ち行列に割り込むという軽犯罪を犯していたことが発覚したようなもの。 肝心の殺人犯は、逮捕されていないどころか、その正体すら わかっていないのだ。 |