A Happy Come Come Cat






ご利益は、開運招福、金運商売隆昌、家内安全、身体健全、学業成就、良縁成就、交通安全。
つまりは、『良いことは すべて 承ります』。
売っている場所は、浅草の長国寺と鷲神社の山門 及び 境内。
つまりは、仏様と神様の保証付き。
それが、浅草 (とり)の市で売られる“縁起熊手”なる代物だった。

「でね。ここは奮発して、どかーんと大きな熊手を買ってきて、お店の入り口に飾ろうと思うのよ」
と蘭子が言い出したのは、いよいよ秋も終盤に入った11月の ある日のこと。
「バーに熊手ですか」
仮にも自分の雇い主に、氷河は ひどく冷ややかな声で問い返した。
相手が蘭子でなかったら、氷河は、『正気の沙汰とは思えんな』くらいは続けていたに違いない。
『バーに熊手ですか』だけで済ませたのは、氷河にしては上出来と言っていいだろう。

店には 店のイメージというものがある。
真っ赤な鯛に おかめのお面、松竹梅に 太いしめ縄、大判小判に招き猫、鶴に米俵、宝船。
飾れる縁起物をすべて飾りまくった、侘びも寂びも品もない巨大熊手が、大人の社交場たるバーに似合うとは、氷河でなくても思えない。

蘭子の思いつきが受け入れ難すぎて、氷河は わざわざ渋面を作る気にもならなかったらしい。
氷河が 傍目には いつもと変わらない無表情でいることは、おそらく良いことなのだろうと、瞬は思ったのである。
接客業に従事するには致命的なまでに 愛想のない氷河を雇ってくれている寛大な雇用主に、己れの立場もわきまえず、露骨な不満顔を向けるようなことをされては、実際に そんな恩知らずなことをする氷河自身より瞬の方が、蘭子に対して申し訳が立たないのだ。

幸い、店は まだ開店準備中。
しかも、今 この場には、殺伐とした空気を ほのぼのムードに変える才能においては右に出る者のないナターシャがいる。
彼女は早速 その能力を駆使し始めてくれた。

「マーマ。クマデってナニー?」
カウンターチェアはナターシャには危ないので、ナターシャと瞬はテーブル席。
メロンシェイクのグラスを両手で握りしめたまま 瞬に尋ねたナターシャの子供らしい高い声が、面白いほど明瞭に店内に響き渡った。
「熊手っていうのは、クマさんの手に似た道具のことだよ。クマさんの手は とっても大きいの。お金や幸せを 大きな手で たくさん 掻き集められるようにって願いを込めて、みんなが 自分の お店や お家にクマさんの手を飾るんだよ」
「そうなのよ、ナターシャちゃん。その熊手があると、パパのお店が繁盛するの。招き猫がついてる熊手もあるわよ。可愛い猫さんよ」
「ネコさん !? ネコさん! パパ、可愛いネコさん、買いに行コウ!」
「ん……まあ……招き猫くらいなら……」

招き猫も 十分に、バーの雰囲気を壊す力を備えた置き物である。
そんな物が登場した途端、バーは 大衆居酒屋の雰囲気を呈することになるだろう。
――とは、もちろん、瞬は思っても口にしない。
今 大事なことは、店に派手な縁起物を飾りたい蘭子と、それを断固 阻止したい氷河の 妥協点を探ることなのだ。
せっかくナターシャのおかげで 殺伐とした空気が和んだところに 詰まらない真実を割り込ませて、どんな益があるというのか。
もちろん 瞬は、そんな無益なことはしなかった。

ナターシャには『NG』を出せない氷河を見やり、蘭子が楽しそうに筋肉込みで笑う。
「氷河ちゃんを言いなりにしようと思ったら、ナターシャちゃんを人質に取るのが いちばんね」
「そんなことをしたら、僕でも、蘭子さんの命を保障はできませんよ。ご自分の命とお店の繁盛のどちらが大切なんです」
「あら」
瞬の忠告は、蘭子に肩をすくませた。
発達した僧帽筋のせいで、蘭子の首が半ば以上 見えなくなる。

「じゃあ、訂正。氷河ちゃんに 言うことをきいてもらおうと思ったら、ナターシャちゃんにお願いしてもらうのが いちばんね」
「パパは、マーマの言いつけも ちゃんときくヨー」
「そうね。氷河ちゃんは、ナターシャちゃんと瞬ちゃんの言いつけを守る、素直な いい子よね」

『“素直な いい子”は、自分の雇い主の言うこともきくはず。パパが反抗的な悪い子だったら、ナターシャちゃんが がっかりするわよ』
蘭子の無言の脅しにも 氷河が表情を変えないのは、脅しに屈したくはないが 屈しないわけにもいかないという、氷河の複雑な心情の現われだったろう。
思うところがありすぎて、どんな表情を作ればいいのかが、氷河は わからずにいるのだ。
氷河の無反応をいいことに、蘭子は 一人で どんどん話を進めていく。
「じゃあ、招き猫でもいいわ。どかーんと おっきいのを買ってきてちょうだい。それを店の前に飾りましょう」
「熊手と違って、招き猫は大きくなくても――」
「パパ、パパ。うんと可愛くて、どかーんと おっきいネコさん買ってこようネ!」
「……そうだな」

蘭子は、もしかしたら、ただただ氷河をからかうためだけに“どかーんと おっきい”縁起物に こだわってみせていただけだったのかもしれない。
意欲満々のナターシャに『いや』と言えない氷河に、これ以上は耐えられないと言わんばかりに、蘭子は呵々大笑した。
「氷河ちゃんてば、ほんとにナターシャちゃんに弱いというか、甘いというか……。おっかしい! 一見クールのポーズを崩さないところが、何とも言えないわあ。ギャグって、ギャグを言う人間が笑ってると、面白さが半減するのよね。氷河ちゃん、いっそ ナターシャちゃんと組んで親子漫才でも始めたら?」
幾人もの被雇用者の採用と管理を行なっているだけあって、蘭子の人物眼は確かである。
蘭子は、氷河の その才能――氷河自身は決して認めようとしない、特異な才能――に気付いてしまったようだった。

「氷河ちゃんたら、絶対に ナターシャちゃんに悲しい思い出は作らせないって、瞬ちゃんに宣言したんですって? ナターシャちゃん幸せ宣言。ほんと、いいパパよね」
「パパは とってもイイパパダヨ! デモ、ランコママ。シアワセセンゲンってナニー?」
ナターシャは、パパを褒められるのが大好きである。
そして、パパを褒めてくれる人が大好き。
笑顔全開で、ナターシャは蘭子に尋ねた。
そんなナターシャにつられたように、蘭子の笑顔も、おかしさが作る笑顔から 楽しさでできる笑顔へと、質が変わる。

「絶対にナターシャちゃんに悲しい思いをさせない。ナターシャちゃんが いつも笑顔でいられるようにする。そのためになら何でもするって、氷河ちゃんは世界中の人に約束したのよ。ナターシャちゃん、いいわねえ。アタシも 氷河ちゃんに そんなこと言われてみたいもんだわ」
「エ……」
蘭子に“シアワセセンゲン”の意味を教えてもらったナターシャは、ふいに、どこか子供らしくない真顔になった。
両手で握りしめていたメロンシェイクのグラスをコースターの上に戻し、ナターシャが微かに首をかしげる。

「蘭子さん……!」
瞬は慌てて蘭子の名を呼んだ。
それが、自分の発言を遮るためのものだということを 勘良く察して、蘭子が戸惑いの表情を浮かべる。
なぜ瞬が そんなことをするのかが、蘭子には わからなかったのだろう。
蘭子は 怪訝そうに、そして 素早く、瞬の顔とナターシャの顔を見比べ、しかし、彼女は 結局、瞬の制止の理由に辿り着くことができなかったようだった。

「私、何か まずいこと言った?」
ナターシャを横目に見ながら、瞬が横に首を振る。
「いえ……そういうわけでは……」
蘭子は“まずいこと”など言っていない。
彼女は、どんな他意もない、好意のみでできている厚意から 事実をナターシャに知らせただけなのだ。
ナターシャがパパに深く愛されていることの証左たる事実。
それが“まずいこと”であるわけがない。
しかし――。

「ナターシャちゃんは頭のいい子なので、心配なんです」
ナターシャには聞こえぬように小声で、瞬は 自身の懸念を蘭子に伝えた。
否、それは もしかしたら、蘭子に伝える意図さえない独り言だったのかもしれない。
瞬が何を心配しているのか、蘭子には わからなかったようだった。






【next】