パパに心配をかけまいとして。
パパに いい子だと思ってもらいたいから。
ナターシャの笑顔が、そんな思い遣りや 子供らしい望みを動機として作られたものではないことを、瞬が認めざるを得なくなったのは、それから更に数日が経った、ある日の夕刻だった。

店に出勤する氷河と一緒に家を出て、氷河が電車に乗るのを確認(ちゃんと電車に乗るのを見届けないと、氷河は 常人には不可能な移動手段を用いようとするので)。
その後、瞬はナターシャと共に、夕食と明日の朝食の食材を調達するために スーパーに入った。
棚のオレンジを選んでいる瞬の横で、カートの取っ手を掴もうとしてバランスを崩したナターシャは、その態勢を立て直そうとした弾みに、上着の袖をカートに引っ掛けて かぎ裂きを作ってしまったのである。
パパに選んでもらった、お気に入りのアンサンブル。
5センチ近くも破けてしまった袖を見て、ナターシャは真っ青になった。

「あ……」
微かな悲鳴を洩らしたナターシャが、次には大きな泣き声をあげるのだろうと、瞬は一瞬 身構えたのである。
実際、ナターシャは、声を上げて泣こうとしたのだろう。
ナターシャが そうしなかったのは、お店に入る時の いつものお約束『お店の中では騒がないこと』を思い出したからだったかもしれない。
だが、そのせいで、声を上げて発散できなかった情動が 涙になってしまったのだろう。
ナターシャは、破れてしまった袖を隠すように、もう一方の手で握りしめ、瞳から ぽろぽろと大粒の涙を零し始めた。

子供らしく騒がず 喉の奥で しゃくりあげ、涙の滴を量産しているナターシャの前に しゃがみ込み、瞬は、ナターシャが隠そうとしている袖の かぎ裂きを確かめたのである。
軽微な ほつれとは言い難かったが、袖口の、しかも内側。
生地は濃い色のジョーゼット。
いくらでも補修はできそうだった。
瞬は ナターシャの髪を撫でながら、俯き泣き続けているナターシャの顔を覗き込んだのである。
「これくらいなら、簡単に直せるよ。ナターシャちゃん、泣かないで」

泣いているナターシャを𠮟りつけるつもりは 毛頭ない。
お気に入りの洋服は、元の状態に戻すことができる。
すぐに涙が止まることはないにしても、ナターシャの嗚咽は 徐々に治まるだろうと、瞬は思っていた。
だが、ナターシャは、かぎ裂きを直すことができると知らされても――むしろ、そう知らされたからこそ? ―― 更に表情が硬くなってしまったのである。

「ナターシャちゃん、どうしたの? 大丈夫だよ。お洋服は 元に戻るよ」
重ねて告げた瞬の前で、ナターシャが首を横に振る。
ナターシャが案じていたのは、洋服の かぎ裂きではなかったらしい。
否、もちろん かぎ裂きのことも案じてはいたのだろうが、それが修繕できるものだとわかったせいで、ナターシャの中には別の憂いが生じてきてしまったようだった。
涙でいっぱいの瞳で 瞬の顔を見上げ、ナターシャは、(既に泣いているのに、更に泣きそうな顔で)瞬に訴えてきたのである。
「マーマ、マーマ。ナターシャが泣いちゃったこと、パパには言わないで。パパにはナイショにして」
と、それこそ必死な目をして。

ナターシャが何を言っているのか 咄嗟に理解できず、瞬は こくりと息を呑んだ。
「ナターシャちゃん?」
「ナターシャは、幸せなナターシャでいなきゃならないの。いつも笑っていなきゃ ならないの。パパにはナイショにして。パパには言わないで。ナターシャ、パパが悲しいのはイヤ」
氷河に選んでもらった服を破いてしまったことではなく、泣いてしまったことを秘密にして。
「ナターシャちゃん……」
蘭子が 氷河の“ナターシャちゃん幸せ宣言”をナターシャに知らせてしまった時に 瞬が抱いた懸念。
それが現実のものになっていたことを、ナターシャの必死の訴えが、瞬に教えてくれた。

子供というものは、本当に油断がならない――と、瞬は思ったのである。
子供というものは、素直で 真っすぐで、感受性が豊かで、そして、時に 大人より深く物を見、感じ、考えることをする。
経験を積んだせいで、大人が考えることを省略してしまうようなことも、子供は真面目に、真摯に考えるのだ。
真剣に向き合わないと――子供だからと油断していると、大人は足を すくわれてしまいかねない。

「ナターシャちゃん、大丈夫だよ。氷河はね、ナターシャちゃんがいてくれるだけで、とっても嬉しくて、幸せなんだよ」
「デモ……ナターシャが泣いたら、パパが悲しくて、がっかりスルヨ。がっかりして、ナターシャのこと嫌いになっちゃうかもシレナイ……」
あの氷河がナターシャを嫌う。
そんなことがあるはずがない。
大人になってしまった瞬が一笑に付して考えもしないようなことを、ナターシャは真面目に真剣に考えたのだ。
その真剣な態度を、どうして大人が笑っていいものだろう。
瞬は、ナターシャの“あり得ない”心配を、あり得ないことと笑うことは、もちろん しなかった。
ナターシャより真剣な顔で、瞬はナターシャに向き合った。

「ナターシャちゃん、僕が保証するよ。ナターシャちゃんが笑っていても泣いていても、氷河はナターシャちゃんが大好きで、ナターシャちゃんがいてくれるだけで嬉しいんだよ。ナターシャちゃんがいてくれれば、氷河は悲しんだり、がっかりしたりなんかしない。氷河が悲しむのは、ナターシャちゃんが いなくなっちゃった時だけだよ」
「デモ、パパは――」
マーマの言うことを いつもは素直に受け入れるナターシャが、今日は いつになく頑なである。
それほどまでに、ナターシャは、パパが悲しむ事態を 深く真剣に憂えているのだ。
ナターシャを、いつもの明るいナターシャにするために、瞬は ナターシャの小さな身体を抱きしめた。

「ナターシャちゃん、おうちに帰ろう。新しい お話を教えてあげる」
「新しいオハナシ……?」
「そう。ナターシャちゃんと氷河が 幸せで優しい気持ちになれる お話だよ」
手早く買い物を済ませると、瞬はナターシャと手をつないで、家路を急いだのである。






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