胸に心配事が詰まっていると、食べ物は喉を通らないし、無理に食べても美味しくない。
帰宅した瞬は、暫時 迷ったのだが、食事の準備は後回しにすることにした。
今のナターシャには、夕食より 安心の方が ご馳走だろうと考えて。

瞬が迷うまでもなく、
「マーマ。パパが幸せになれるオシナシして」
と、ナターシャが お話をねだってくる。
瞬はリビングルームのソファに腰を下ろし、その膝にナターシャを座らせて、ナターシャの求めるものを彼女に与えてやったのである。
それは、遠い昔に、瞬が氷河から教えてもらった、悲しく切ない物語だった。
悲しい物語だったのに、その物語を教えてもらった瞬は、それで氷河が大好きになったのである。
その物語を聞く以前から、瞬は、不器用で不愛想で ぶっきらぼうな男の子が大好きだったのだが、その悲しい お話を聞いて なお一層、その男の子が大好きになった。
それは、そんな不思議な お話だった。



「昔々、ここよりずっと北の寒い寒い国に、とっても元気で明るい男の子がいました。
その男の子は、北の浜辺にある小さな村の小さな家に、パパとマーマと三人で 幸せに暮らしていました。

ところが ある時、男の子のパパが事故で死んでしまったのです。
男の子のマーマは、パパのことが大好きだったので、パパがいなくなったことを とてもとても悲しみました。
海を見ても、空を見ても、男の子を見ても、マーマの瞳には すぐに涙があふれてきてしまうのです。

男の子は、大好きなマーマを励ますために、悲しむマーマを それ以上 悲しませないために、無理に笑うようになりました。
男の子は、自分だって とっても悲しかったのですけど、毎日毎日 一生懸命、マーマのために笑っていたのです。
そんな男の子に励まされて、マーマも少しずつ元気になってくれました。

けれど、毎日 無理に笑っていたので、男の子は、本当の笑い方を忘れてしまったのです。
楽しいことがあって笑おうとしても、顔が強張って、変な顔になってしまうのです。
そんな男の子を見て、村の人たちは、男の子のことを、何を考えているのか わからない変な子だと思うようになりました。
パパが死んだのに いつも笑っていた男の子のことを、冷たくて ひどい子だと言う大人もいました――」


「そんなの、カワイソウ。その男の子はマーマが大好きだったんデショウ? マーマのために一生懸命だったんダヨネ?」
「そうだよ。氷河を悲しませたくないって思うナターシャちゃんみたいに、その男の子は一生懸命だったんだよ。マーマだけは、男の子の気持ちを わかってくれていたから、男の子は村の人たちに何と言われても気にしなかったんだけどね」
「そっかー。マーマがわかってくれてたら、大丈夫ダヨネ。だって、男の子はマーマのために笑ってたんだモノ」
「そうだね」
「それから、男の子はどうなったの?」


「その男の子は、だんだん大きくなって、やがて 大人になりました。
でも、大人になっても、その男の子は、相変わらず 笑うのがへたで、いろんな人に、“変な人”だの、“冷たい人”だのと言われ続けていました。
ただ一人、男の子が とても優しい子だということを知っていたマーマがいなくなると、男の子が本当は優しい子だということを知っている人は誰もいなくなってしまいました。
大人になっても笑い方がへたな男の子を、恐いと言う人もいて、男の子は とても寂しい思いをしていたのです」


「マーマ……」
ナターシャが、不安そうに 瞬の顔を覗き込んでくる。
氷河が幸せになるお話だと言っていたのに、いったい いつになったらパパは出てくるのか。
その男の子は、いったい どうなってしまうのか。
ナターシャは 心配でならなかったのだろう。
瞬は、心配で 気が急いているらしいナターシャの髪を ゆっくり優しく撫でてから、笑うのがへたな男の子のお話を続けた。


「大人になった男の子は、ある日、この国の ある場所で、小さくて可愛い女の子に会いました。
その女の子は、何か悲しいことがあったのか、しくしく泣いていました。
大人になった男の子は、その小さな女の子に 明るく笑ってほしいと思いました。

それで、大人になった男の子は、その小さな女の子のパパになったのです。
女の子は、みんなが恐がる大人になった男の子が 優しいパパだということを知っていて、パパを恐がりませんでした。
パパになった男の子は、それがとても嬉しくて、その女の子が大好きになりました。

男の子は、パパになっても やっぱり笑うのがへたなままだったのに、女の子は パパになった男の子の笑顔が 笑顔だということを、ちゃんと わかってくれたのです。
女の子のおかげで、パパになった男の子は、少しずつ笑うのが上手になって、今もまだ ちょっと へたなままなのですが、今では 本当に幸せなパパになりました」




「……」
このお話の意味が、ナターシャには わかっただろうか。
このお話はまだ終わっておらず、今も、これからもずっと続くので、“めでたし めでたし”で裏表紙を閉じることができない。
瞬の腕の中で、何かを懸命に考えているようなナターシャを、瞬は静かに見守っていた。
やがて、ナターシャが、小首をかしげるようにして 瞬に尋ねてくる。
「マーマ。その男の子って、パパのこと?」
ナターシャは、わかってくれたようだった。

「そうだよ。氷河は笑うのがへたな男の子だった」
「でも、ほんとは優しい男の子なんだよね」
「うん。ナターシャちゃんは、氷河が優しいことも、他の人には わからない氷河の笑顔も、ちゃんとわかるんだよね?」
「ウン。ナターシャ、わかるヨ! ナターシャ、パパがとっても優しいパパだってこと、ちゃんと知ってるヨ!」
“わかること”が この上なく誇らしいことであるかのように、ナターシャは 真剣な目をして力強く頷いた。
もちろん、それは誇っていいことである。
人はたくさんいるのに――本当に たくさんいるのに――、それがわかる人間は この地上世界には ほんの一握りしかいないのだから。

「そう。氷河はね、ナターシャちゃんに会えて、とってもとっても幸せになったの。ナターシャちゃんに会えなかったら、氷河は今でも笑うのがへたな寂しい男の子のままだった」
氷河は 今も、“笑うのが上手”とは言えないし、氷河を『恐い』と感じる人間は、彼が“幼い男の子”だった時より増えてしまったかもしれないが、もともと氷河は 彼が愛している人以外の人間には理解を求めない男。
そして 彼が 誰よりも愛しているナターシャは、ちゃんと氷河を理解してくれているのだから、何の問題もない。

そもそも、氷河のような容姿の持ち主が 笑うのが上手で、他者に わかりやすい優しさを示すことができてしまったら、世のご婦人方が彼を放っておかず、氷河は彼の好まない厄介事を幾つも背負い込むことになるだろう。
“人付き合いが苦手”の自己申告とポーズは、人に冷たくできないのに面倒臭がりの氷河の 第二の鎧のようなもの。
氷河には、今の状態がベストなのだ。
今の氷河は、彼が愛している人たち すべてに愛され、理解されている。

「氷河は、ナターシャちゃんに、いつも笑っていろって言ってるんじゃないの。無理に笑うのが どんなにつらいことなのか、氷河は ちゃんと知ってる。氷河は、ナターシャちゃんが泣いてても、ナターシャちゃんが大好き。ナターシャちゃんが泣いてたら、笑顔にしようとする。そうできることが 氷河の幸せなんだよ」
「パパの幸せ……?」
「そう。氷河の幸せ」

人間の幸せには、二つの種類がある。
人から与えられる幸せと、自分の手で掴み取る幸せ。
ナターシャは、そこにいるだけで氷河に幸せを与える。
ナターシャを幸せにしようと努め、実際に幸せにすることで、氷河は彼の幸せを掴み取る。
そういう意味で、ナターシャは、与えられる幸せと与える幸せの両方を氷河に もたらしてくれる完璧な存在だった。
氷河の力を借りなくても 幸せになる力を備えてしまった乙女座の黄金聖闘士は、氷河にとっては 完璧な存在ではないのだ。

「ナターシャちゃんは、無理に笑う必要はないの。嬉しくて楽しい時にだけ笑っていればいいんだよ。氷河は ちゃんとわかってる。氷河はナターシャちゃんが大好きだから」
「ウン……。パパは、小さな時、優しくて、カワイソウだったんだネ……。パパが悲しくて寂しかった時に、ナターシャ、パパの側にいたかったナ。そしたら、ナターシャ、パパをナデナデしてあげたのに」
「そうだね。そうしてあげられたら よかった」
瞬が氷河に出会ったのも、彼がすっかり笑うのがへたになってしまってからだった。
幼い頃、瞬も、今のナターシャと同じことを願った。
もっと早く――氷河が いちばん つらくて悲しかった時に 氷河の側にいて、氷河を慰め、力付け、笑顔にしてあげたかったと。
叶わぬ願いは、叶わないからこそ、いつまでも忘れられない。

「でも、その分、ナターシャちゃんに会えた今は、氷河は幸せだよ。氷河は悲しいことを知っているから、幸せにもなれた。悲しいことを知らない人は、自分が幸せなことに、なかなか気付けないんだよ」
ナターシャも“悲しいこと”を知っている。
パパもマーマもどこにいるのか わからず、自分の名前すら持たず、悲しくて心細くて、ひとり泣いていた小さなナターシャ。
ナターシャは、氷河に出会って、“幸せ”がどんなものであるのかを知ったのだ。
もしかしたら“悲しいこと”を知っていることは、とても恵まれたことなのかもしれない。

賢いナターシャは、瞬の言うことを ちゃんとわかってくれたようだった。
氷河が望んでいる通りの笑顔を、ナターシャは瞬に見せてくれた。
「ナターシャもパパに会えて、とってもシアワセダヨ。だって ナターシャは パパが大好きダカラ」
「氷河も、ナターシャちゃんのことが大好きだよ」
それを“わかりきったこと”“言うまでもないこと”と決めつけて、愛する人に伝えないのは、経験を積んだ大人の怠惰なのだろう。
そんな“わかりきったこと”“言うまでもないこと”を瞬に知らされたナターシャは、太陽との出会いを喜ぶ夏の花のように、その表情を明るくした。
ナターシャは、大人のように怠惰ではないので、勤勉に(?)伝えるべきことを ちゃんと瞬にも伝えてくれた。

「パパはね、マーマのこともダイスキナンダヨ。シュンがいるカラ、オレは生きてるンダって、パパはいつも言ってるヨ。シュンがいなかったら、ナターシャはパパに会えなかったんだっテ。だからシュンの言うことは、ちゃんとイイコで聞くんだぞっテ」
「氷河が?」
自分は、“シュンの言うこと”を、ちゃんとイイコで聞かないくせに。
大人は、これだから困る。

「ナターシャも、マーマ、大好き」
「僕もナターシャちゃんと氷河が大好きだよ」
「みんながみんなをダイスキなんだね。楽しいね」
「そうだね、そして、みんな 優しいね」
小さなナターシャが、どれほど氷河を幸せにしてくれていることか。
そして、乙女座の黄金聖闘士を どれほど幸福にしてくれていることか。
氷河がいなかったら、瞬はナターシャに会えなかった。
そのことに免じて、瞬は、『氷河は、シュンの言うことをちゃんと聞くイイコじゃない』と、ナターシャに伝える仕事を 怠けてやることにしたのである。






【next】