「だいたい、瞬がナターシャのマーマというのが おかしいだろう! 俺の弟は歴とした男子だぞ。しかも、氷河なんぞより はるかに強い男だ!」
氷河を非難し攻撃する材料なら、一輝には いくらでもあった。
これなら紫龍も、氷河(だけ)の非を認めるしかあるまいと 言わんばかりに、一輝が持ち出した その攻撃材料に、異議を唱えてきたのは、今度は紫龍ではなく星矢だった。
もっとも、星矢が 一輝の非難に賛同できなかったのは、“男子であるところの瞬が、ナターシャのマーマをしているのは おかしい”という点ではなく、“瞬が氷河より はるかに強い”という点のようだったが。

「今はどうかなあ。今は、氷河にはナターシャがついてるから」
「……それは どういうことだ。ナターシャには何か特殊な力があるのか」
「あるある。大あり」
「……」
ナターシャが、氷河の娘になる前は 強大な力を持つ暗殺者だったことは、一輝も聞いていた。
眉を曇らせた一輝に、ナターシャの持つ恐るべき特殊能力を語り始めた星矢の表情は、だが、随分と明るいものだった。

「氷河が 何か悪さして 瞬に叱られるとさ、ナターシャが『マーマ。パパはハンセイしてるから、許してあげて』って言って、氷河を庇うんだよ。瞬は、パパを庇おうとするナターシャの気持ちを無にするわけにはいかなくて、結局 氷河を許すしかなくなるんだ」
「あ……あの馬鹿たれは、子供に我が身を守ってもらっているのか! 仮にも黄金聖闘士が情けない!」
「氷河が情けない男だってことは、俺も否定しないけど」
「何がマーマだ! あんな情けない馬鹿聖闘士と違って、俺の弟は強くて賢い。氷河の娘にマーマ呼ばわりされる いわれはない。奴の魂胆は わかってるぞ。瞬をナターシャのマーマにして、瞬を自分に縛りつけようとしているんだ。下劣の極み、姑息極まりない!」
「まあ、それは――」

これまで、一輝が氷河を糾弾するたびに 茶々を入れてきた星矢と紫龍が、初めて二人 揃って黙り込む。
彼等が揃って沈黙することになったのは、それが事実かどうかは定かではないが、おそらく そうなのだろうと、彼等が思っているから――だった。
そうではないと言って氷河を庇える根拠を、二人は持っていなかったのだ。
そうと気付いた一輝が、今度こそ 心置きなく 眉を吊り上げる。

「やはり、これは氷河の陰謀かっ! 幼い子供に 瞬をマーマと呼ばせ、懐かせて、瞬の優しい心に つけ込んで、瞬に引越しをさせ、同棲状態にまで持ち込んで――」
「んー……」
否定できない。
星矢と紫龍は、一輝の糾弾を完全に否定することはできなかった。
星矢と紫龍が黙っているので、一輝の怒りは更にエスカレートしていく。
「奴は、昔からそうだ。馬鹿のくせに悪知恵だけは働いて、あの手この手で 瞬の気を引き、篭絡しようとする。卑怯だ。卑劣だ。下劣だ。奴には、良心やプライドというものはないのか!」
こめかみに青筋を立てて わめき続ける一輝は、今にも脳の血管が ぶち切れそうである。
星矢が 口を開いたのは、氷河を庇うためというより、一輝が脳卒中で倒れる事態を回避するためだったかもしれない。

「氷河が清らかな心の持ち主だとか、氷河が陰謀を巡らせなかったとは、俺も言わないけどさ。瞬のマーマ呼びのことは、ナターシャにマーマのことを訊かれて、他にどうしようもなくて、仕方なく、こういうことになったんだと思うぞ」
「うむ。氷河には ナターシャの登場は渡りに船だったろうが、氷河は 決して、自分のためだけに瞬をナターシャのマーマにしたのではないだろう」
“ナターシャだけのため”でないなら、氷河が卑劣なことに変わりはない。
少なくとも一輝にとっては そうだった。
とはいえ、それが“ナターシャのため”でもあるのなら。
一輝は、ナターシャのために――あくまで、ナターシャだけのために――怒号を 普通の怒声に変えた。
持ち合わせの少ない“大人げ”を総動員して、それだけはしたのである。

「ナターシャにマーマが欲しいと言われたのなら、適当な女を見繕えばいいじゃないか」
「氷河に そんな甲斐性あるわけないだろ」
「あの歳まで瞬ひとすじの氷河に、そんな無理は言わないでいてやれ」
そういう紫龍も、女性は春麗ひとすじ。
一輝にとって問題なのは、やはり“ひとすじ”の対象が彼の弟だということだった。

「卑怯で、下劣で、その上、執念深さは筋金入り。まさか この俺がデスマスクに同情する日が来るとは、思ってもいなかったぞ。デスマスクの腹下しの件も、絶対に奴の陰謀に決まっている!」
「デスマスクは 邪悪だけど、いい奴だもんな。生しらす丼も奢ってくれたし。氷河は、正義の味方のくせに悪党だから、(たち)が悪い」
「とにかく、今の氷河には、『ナターシャのために』っていう錦の御旗があんの。俺たちには どうしようもないんだよ」
星矢が、『だから、我慢しろ』と言わないのは、それが理不尽だということがわかっているからなのだろう。
一輝は、ぎりぎりと歯噛みをした。
そして、怒りは帯びているが 標準レベルと言っていい音量の声で、仲間たちに尋ねる。

「ナターシャは――瞬が本当のマーマだと信じているのか」
「恐くて、確かめたことはない」
「あとで真実を知ったら、ナターシャもショックを受けるだろう。マーマと信じていた人が、実は男だったと知ったら」
氷河の卑劣への罰は与えたいが、それよりも考慮しなければならないものがあることは、一輝もわかっているのだ。
「どうかなあ。ナターシャは、さすがは氷河と瞬の娘っていうか、かなりの大物だから」
「氷河が天下御免の親バカなら、ナターシャも天下無敵のファザコンだからな」
「しかし、いつかは本当のことを教えなければなるまい」
「いつかはな……」

子供が母親を絶対に必要としなくなる頃には、おそらく。
しかし、それが いつなのかを星矢たちは知らなかったのである。
彼等は、これまで 母というものがいない人生を生きてきた。
彼等が最もよく知っている“母親”は、氷河のマーマで、氷河は成人後も――ナターシャに会うまで マーマを引きずっていた。
つまり 彼等は、極めて特殊な例しか知らなかったのだ。


特殊な例しか知らない男たちが、一般論を語ることができずに沈黙した時、一輝が通ることが許されずにいた“逢坂の関”が開き、そこから小さな女の子がホールに飛び出てきた。
言わずと知れた、氷河の娘ナターシャである。
どうやら 約束の時刻が過ぎても お客様が来ないので、待ちきれずに、エントランスホールにまで下りてきたらしい。
白いシフォンのブラウスにスカート。モスグリーンのビロードのベスト。
ツインテールを飾る緑色のリボンには 白い花が添えられている。
おはぎパーティのお客様を迎えるために、ナターシャは念入りに おめかしをしたのだろう。
お客様たちが、エントランスホールに群れ淀んでいるのを認めると、ナターシャは歓声をあげて、パパとマーマの仲間たちの許に駆けてきた。



■ 逢坂の関 ■
夜をこめて 鳥の空音は謀るとも よに 逢坂の関は許さじ By 清少納言
『どんな策を用いても、逢坂の関を通ることは許しません』の意



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