「ワーイ! イッキニイサンだー! 星矢お兄ちゃんと紫龍おじちゃんもイルー。どうして、ナターシャのお家に来ないノー?」 意地の悪い清少納言に 逢坂の関の通行許可証を貰えずにいるのだ――と言っても、ナターシャには通じないだろう。 かといって、『ナターシャのパパの嫌がらせのせいで お客様たちはパーティ会場に行けずにいるのだ』と 本当のことを言えば、氷河を優しいパパと信じているナターシャを傷付けてしまうかもしれない。 先ほどまでの威勢の良さはどこへやら、無言になってしまった一輝を見て、星矢と紫龍は苦笑してしまったのである。 結局 一輝も小さな子供には弱いのだと。 しかし、それは大変な思い違いだった。 最愛の弟を厳しく育てあげ、しかも、ほぼ完璧に子育て(?)に成功している一輝は、子供の養育には 何よりも厳しさこそが必要不可欠――という考えの持ち主だったらしい。 彼はナターシャの笑顔を消し去ることを恐れるような甘ちゃんではなかったのだ。 一輝が、掛けていたサングラスを おもむろに外す。 腰を下ろしていたスツールから立ち上がり、代わりにナターシャを そのスツールに座らせた一輝は、そうして、禁断の事実を いとも あっさり――星矢と紫龍が止める間もなく――ナターシャに知らせてしまったのである。 「ナターシャ、驚くなよ。おまえがマーマと呼んでいる瞬は……実は男なんだ」 禁断の、禁令の、厳に秘密の、衝撃の大事実。 「一輝……!」 「おい、氷河と瞬に断りもなく、んなことして……」 禁制の、禁戒の、厳しい緘口令の敷かれた、驚愕の大事実を知らされて、ナターシャは きょとんとしていた。 一輝の後ろで慌てふためく紫龍と星矢が、なぜ慌てふためいているのかも わかっていない様子で。 ショックが大きすぎて、ナターシャは どんな反応も示せずにいるのだと、星矢たちは思った。 が、そういうことではなかったらしい。 ナターシャが きょとんとしていたのは、どちらかというと、一輝の険しい眼差しの訳が理解できなかったから――のようだった。 ナターシャは、すぐに笑顔になった。 おそらくは、一輝に『驚くな』と言われたことが(ナターシャには)驚くようなことではなく、それゆえ 『驚くな』という一輝の言いつけを守ることができた自分に安心して。 「ナターシャ、知ってるヨー」 笑顔で、ナターシャは そう言ってくれた。 「なにっ !? 」 ナターシャに驚くことを禁じた一輝の方が、派手に驚く。 もちろん、星矢も紫龍も、一輝同様に驚いた。 それは、禁断の、禁令の、厳に秘密の、衝撃の大事実ではなかったのか。 それは、禁制の、禁戒の、厳しい緘口令の敷かれた、驚愕の大事実だったはず。 にもかかわらず、瞬が男子だということをナターシャが知っている――とは、いったい どういうことなのか。 もちろん、一輝は驚いた。 星矢も紫龍も驚いた。 驚いて――何とか口がきけるようになるまで、彼等は優に1分強の時間を要したのである。 「な……ならば、なぜ 瞬をマーマと呼ぶんだ。マーマというのは、普通は女親のことだ」 口をきけるようになったからといって、混乱が収まったわけではない。 ナターシャを 問い質す一輝の声は―― 一輝ともあろうものが――震えを帯びていた。 そんな大人たちとは対照的に、ナターシャは 声も表情も 朗らかで軽快である。 「それは、“ママ”ダヨ。“ママ”と“マーマ”は違うんダヨ。マーマは 世界でいちばん綺麗で優しくて、ナターシャを守ってくれる人のことダヨ!」 「……」 ナターシャはまだ、ジョークや皮肉、嫌味を言う能力は 備えていない(はずである) 無論、嘘のつき方も、『嘘も方便』という言葉も知らない(はず)。 ナターシャは素直な いい子なのだ。 素直な いい子のナターシャは、もちろん いつも大真面目である。 一輝の腰が引けるほど、ナターシャは大真面目だった。 「マーマっていうのは、チのツナガリもセイベツもトシも関係ない、コドモが世界一 綺麗で優しくて強いって思う人のことなんダヨ。パパがそう言ってた。パパのマーマもそうだったんだっテ」 “パパ(氷河)が そう言ってた”ことほど、信じてはならない言葉が この世にあるだろうか。 一輝にとって、“氷河の言うこと”は 常に、嘘、でたらめ、いんちき、大法螺、詭弁、世迷い言等の言葉と ほぼ同義だった。 「なるほど。だから、氷河は“パーパ”ではなくパパなんだな」 紫龍が 何やら得心顔で言っていたが、一輝には そんなことはどうでもいいことだった。 「マ……マーマの定義など、どうでもいい! そんな氷河だけのローカルルールが世間に通じると思ったら、大間違いだぞっ。氷河が、瞬をマーマと呼べと言ったんだろう! だから、おまえは、歴とした男子であるところの瞬をマーマと呼んでいるんだっ!」 それは、どんな根拠も証拠もない決めつけであるが、他のパターンが考えられないという点で、ある程度の妥当性を持つ決めつけと言えたかもしれない。 日本語圏で、“ママ”を『マーマ』と呼ぶ人間は 稀少である。 他言語圏では『ママ』より『マーマ』という発音の方が一般的なのだが、日本語圏では ほぼ『ママ』固定。 ナターシャが よその家の子供を真似て、自分の女親とおぼしき人を呼ぶなら、ナターシャは瞬を『ママ』と呼ぶはず。 『マーマ』は、氷河が教えたのでなければ ナターシャが口にするはずのない呼称なのだ。 瞬を男子と知っていながら、氷河が 『瞬をマーマと呼べ』と言ったのでなければ、ナターシャが瞬を『マーマ』と呼ぶはずがない。 しかし、ナターシャの返事は、 「パパは そんなこと言ってない……と思うケド」 というもの。 「思う――ケド?」 『言っていないと思うケド』の『ケド』は、この場合、逆接の接続詞なのか、確定の接続助詞なのか、はたまた 希望の終助詞なのか。 その発言をしたナターシャ自身にも、そのあたりのことは 実は よくわかっていないようだった。 ナターシャが、真剣な顔で、何事かを考え込む様子を見せる。 彼女は、彼女が 瞬を『マーマ』と呼ぶようになった時の記憶を 懸命に思い起こそうとしているようだった。 だから――ナターシャが問題の記憶に辿り着くのを、一輝たちは大人しく待ったのである。 余計な先入観を与えて ナターシャの真実の記憶を歪めることがないように 口を挟まずに、彼等は待った。 2分弱の時間をかけて、ナターシャは、目的地に辿り着き、目的のものに無事にアクセスできたらしい。 確信に満ち、ナターシャは 力強く頷いた。 「ウン。パパは、マーマを『マーマって呼びなさい』って、ナターシャに言ってないヨ。ナターシャは、パパに言われなくても、マーマがナターシャのマーマだって わかったんダヨ」 「氷河が、瞬をマーマと呼べと言ったのではないのか?」 「マーマがナターシャのマーマだってことは、ナターシャが決めたんダヨ」 「ナターシャが決めた……?」 意味がわからない。 わからないが、とにかく氷河を悪者にしたい。 ナターシャと瞬には罪がないことにしたい。 氷河だけが悪いのだということにしたい。 その思いが、一輝の声を怒声にした。 「そんなはずがあるか! 氷河の奴が入れ知恵したに決まっている! ナターシャのためだとか、子供には母親が必要だとか、屁理屈をこねて瞬を説き伏せ、あの悪党が 俺の弟を自分の娘の母親に仕立て上げてしまったんだ!」 一輝の剣幕を ナターシャがどう感じ、一輝の言葉を ナターシャが どう考え、一輝の憤怒の決めつけを ナターシャがどう判断し、一輝の怒声に ナターシャがどんな反応を示すのか。 怯え委縮するのか、あるいは 反発するのか。 泣き出すのか、それとも 怒り出すのか。 死と隣り合わせの人生を駆け抜けてきた星矢と紫龍でも――実は一輝も――ナターシャの次のリアクションを見ることが恐かったのである。 死をも恐れず、神の力にも臆することのないアテナの聖闘士たちが、三人揃って、次の瞬間の到来を恐れていた。 幸いにして、その場が修羅場にも愁嘆場にもならずに済んだのは、怯えつつも怒れる一輝に、一輝専用の鎮静剤が投与されたからだった。 歴とした男子で、実力ではアクエリアスの氷河を はるかにしのぎ、おそらく 地上世界で五指に入る豪傑が、その場に 軽やかに登場したのだ。 |