「平和と秩序を取り戻すというのは こういうことだったのかと、僕は――僕たちは……。僕たちが地上の平和を取り戻すために 命がけで戦ったのは、それがナターシャちゃんの生きる世界を守ることでもあると思っていたからだった。僕たちが戦いに勝つことは、ナターシャちゃんと過ごす日々を取り戻すことだと、そう信じていた。だから 僕たちは、戦って――勝つだけじゃ駄目。絶対に生きて帰らなきゃならないんだと 互いに誓って、そして 実際に、どんな試練にも絶望にも打ち勝った。なのに――」 「瞬さん……」 瞬は蒼白になった。 最初に考えたのは、氷河の心。 自分たちの時の川の下流にも、同じ事態が待っているのかということ。 異世界の氷河は、無言で、ナターシャを見詰めている。 彼のナターシャではないナターシャ。 だが、この世界の氷河と同じようにナターシャを愛していたのだろう彼。 この世界のナターシャと同じように可愛らしく、パパが大好きだったのだろう彼のナターシャ。 お花のついた可愛いカチューシャより、パパのお下がりのカチューシャ――。 どれほど、彼は 彼のナターシャを愛していたことか。 どれほど 彼のナターシャは 彼女のパパを愛していたことか。 二度も、氷河は“ナターシャ”を失い、二度も、“ナターシャ”は氷河を失うのか――。 異世界の瞬の悲しみと苦しみも、瞬には 痛いほど はっきりと感じ取ることができた。 “瞬”の悲しみと苦しみは、瞬自身のものでもあったから。 母と娘――氷河が 二度と“ナターシャ”との別れを経験せずに済むように――そのために、“瞬”は“氷河”と“ナターシャ”の側にいたのに。 異世界の瞬は、その務めを果たすことができなかったのだ。 「あのナターシャちゃんは、僕たちのナターシャちゃんじゃない。それは わかっています。すみません。でも、しばらく――もう しばらくだけ」 異世界の瞬の瞳が潤んでいる。 彼は、彼の娘と彼の氷河を守り切れなかった無力感で、二重に苦しんでいるのだ。 異世界の氷河は、ナターシャを睨んでいる。 彼は、彼のナターシャと彼の瞬のために泣くまいとして。 「氷河が泣くので、僕、どうしても……」 彼等のナターシャではないナターシャの姿を見ることで つらさが増すことがわかっていても、どうしても もう一度、彼等は ナターシャの笑顔を見たかったのか。 それは未練なのか。後悔なのか。 あるいは、これから ナターシャのいない日々を生きていくために必要な儀式なのか。 この出会いは、もしかしたら そのすべてなのかもしれなかった。 「氷河、泣かないで」 「泣いているのは、おまえだ」 「僕は泣いてないよ。氷河がいてくれるから」 言葉とは裏腹に、異世界の瞬の瞳から ぽろぽろと幾粒もの涙の滴が 零れ落ちる。 その涙を認めて、異世界の氷河は、 「そうか……泣いているのは俺か」 と呟いた。 そして、彼の瞬の肩に置いている(すがっている)手と指に力を込める。 「そうなのかもしれない。おまえは子供の頃から、いつも、俺や一輝の代わりに泣いてくれていた」 「氷河……」 二人は互いに互いを必死に支え合っているようで――瞬は、そんな二人に何を言うこともできず、彼等への ほとんど共鳴と言っていい同情と、自分の氷河の未来を案じる心とで、身動きもならなかった。 異世界の瞬が、瞬の表情が強張っていることに気付いて、かなり無理をして笑顔を作る――作ろうとしたようだった。 結局、彼は そうすることに失敗したが。 「誤解しないでください。この世界でも同じことが起きるとは限りません。あなた方が、この世界の戦いに勝てるとも限らない。戦いに負け、消滅するのは、“敵”ではなく あなた方の方かもしれない」 「……」 異世界の瞬が語る、この世界の未来。 ひどい未来だと思うのに、ナターシャが消えてしまう未来より ましだと思う――感じる。 それは、地上の平和を守るために存在している聖闘士に あるまじき感情だった。 「僕たちも、この川の下流には行けないので――上流に行くことはできても、下流には行けないので――僕たちには、あなた方とあなた方のナターシャちゃんを守るための適切な助言も忠告もできません。すみません」 「いいえ……いいえ……」 ナターシャを失った悲しみに耐えている二人に、何かをしてもらおうとは思わない。 瞬は、懸命に、ただ力なく首を横に振った。 異世界の瞬が――もちろん彼は、この世界の瞬の心も わかっているだろう。 彼は“瞬”なのだから。 彼は瞬――この世界の瞬のために、再び笑顔を作ろうとして、再び失敗した。 「大丈夫……大丈夫です。僕には僕の氷河がいるし、僕たちには僕たちの仲間がいる。他の川では――ナターシャちゃんに会えなかった僕たちだって いるのかもしれない。僕たちは――」 ナターシャに会えただけ 恵まれていると、彼は言おうとしたのだろうか。 瞳を涙でいっぱいにして? そうだったのかもしれない。 喜びや幸福というものは、そういうものなのだ。 悲しみや不幸を知っているから、その価値は増す。 「あの……僕たちのナターシャちゃんと、お話しますか?」 それは、彼等を かえって つらくするだけのことかもしれないので――瞬は、遠慮がちに 提案した。 そして、氷河とイチョウの葉っぱを探しているはずのナターシャの方を振り返り――いつのまにか、ナターシャが 自分の隣りに立っていることに気付く。 ナターシャの横には 氷河がいて 事情を察したのか、長髪の自分と瞬を見て 表情を硬くしていた。 |