「あ……」
異世界の二人。
二人にとっては、異世界の娘。
「ナターシャ?」
この世界のナターシャ――ツインテールのナターシャは、パパ――この世界の氷河――に名を呼ばれても無反応だった。
異世界の氷河と瞬を じっと見詰め、人形のように身動きもしない。

ナターシャにとっては、彼女のパパとマーマに そっくりな、もう一組のパパとマーマが現われたようなもの。
その二人を、ナターシャは どう理解しているのか。
瞬は、ナターシャに何も言わなかった。
どう説明すればいいのかが わからなかったから――ではない。
ナターシャが――彼等のナターシャが、別のナターシャになったような気がしたから。

名を呼ぶことすら ためらわれる――できない。
ナターシャが、それを拒んでいる。
瞬を拒絶して、ナターシャは異世界の氷河と瞬の前に歩み寄っていった。
そして、異世界の二人を、慕わし気に、懐かしげに見上げ、見詰める。
ナターシャは、異世界の二人の前で、 明るく笑った。

「パパ、マーマ、アリガトウ!」
それは、瞬の知っているナターシャの声音ではなかった。
同じ声なのに、何かが違っていた。
違う声のナターシャ。
「ナターシャは、パパとマーマが大好きダヨ! ずっとずっと大好きダヨ!」
この上なく明るく幸せそうな笑顔。
幸福そのもののような笑顔。
それは彼等のナターシャの笑顔だった。おそらく。

「ナターシャちゃん……!」
この世界のナターシャを抱きしめてはならないとわかっているのだろう。
異世界の瞬は、異世界の氷河の胸に頬を押しつけ、声を殺して泣き始めた。
それはきっと、“氷河”の代わりに流す涙ではなく、“瞬”自身の涙。
娘を失ったマーマ自身の涙。
異世界の瞬の肩を抱きしめ、異世界の氷河が“ナターシャ”をじっと見詰める。
そこに、彼は、彼のナターシャの心を見たのだろうか。
可愛い可愛い彼等の小さな娘。
彼女は どうしても、彼女のパパとマーマに その言葉を伝えたかったのだ――。

イチョウの木は、彼の小さな金色の娘たちを静かに散らし続けている。
また巡り合える日を、パパの許に戻る日の訪れを信じて、無数のイチョウの葉たちは きらきらと輝きながら大地を覆っていく。
彼等が再び出会うことがないと、誰に言えるだろう。
彼等は再び出会うのだ。
長い時の流れの果てに、きっと必ず。

舞い散るイチョウの葉の一枚が、ナターシャの頭の上に落ち、
「あれ?」
と首をかしげた時、ナターシャは もう 元の彼女に戻っていた。

異世界の瞬が涙を拭って 懸命に笑顔を作り、この世界のナターシャの前にしゃがみ込む。
ナターシャの顔を、異世界の瞬は 懐かしい故郷の光景を恋い慕うように見詰めることをした。
「ナターシャちゃん、ありがとう」
ナターシャが、なぜ礼を言われるのか わかっていない様子で、ぱたぱたと瞬きをする。
瞳に 異世界の瞬の姿を映し、異世界の氷河の顔を見上げ、ナターシャは びっくりしたように、それでなくても大きな瞳を更に大きく見開いた。

「お姉ちゃん、ナターシャのマーマにそっくりさんだダヨー。お兄ちゃんはパパのそっくりさん。綺麗でカッコいいヨー」
それまで無言でナターシャを見詰めていた異世界の氷河が、ナターシャの前で腰をかがめ、初めてナターシャに話しかける。
彼も、彼の瞬同様、目許に悲しい微笑を刻んでいた。
「そんなに似てるかな?」
異世界の氷河は、この世界の氷河よりずっと優しい口調で ナターシャに接していたらしい。
優しい口調、優しい声音で、彼等のナターシャと同じ姿をした少女に、そんなことを尋ねる切なさ。
よその氷河なのに――よその氷河だからこそ、瞬は 彼を抱きしめてやりたくなってしまったのである。

「ウン。お兄ちゃんとお姉ちゃんも、ナターシャのパパとマーマみたいに優しいんだヨネ?」
ナターシャは、異世界の氷河と瞬、自分のパパとマーマの区別がついているようだった。
二人と二人は 別の二人だと、ナターシャは わかっている。
それは冷徹な現実なのか、残酷な優しさなのか。
瞬きすらせず ナターシャを見詰め続けていた異世界の瞬は、やがて思い切ったように、ゆっくりと一度だけ瞬きをした。
そして、ナターシャに告げる。

「ナターシャちゃん、ありがとう。ナターシャちゃんに会えて、僕たちは とても幸せだった。本当に、幸せだったよ」
なぜ そんなことを言われるのかが わからず、ナターシャは きょとんとしている。
異世界の瞬も、答えを期待してはいなかったろう。
彼がその言葉を伝えたかったのは、彼等のナターシャなのだ。
お返事を思いつけずにいる この世界のナターシャの前から立ち上がり、彼は彼の氷河の傍らに 再び寄り添った。
そうしてから、氷河と瞬に、泣いているような、微笑んでいるような、羨んでいるような、同情しているような、複雑な色の眼差しを向けてくる。

「僕たちの世界の光が丘公園の並木道は、イチョウ並木じゃなく、ポプラ並木なんです。春に花を咲かせて、そのあとに、白い綿毛の種ができる。その綿毛が地面に落ちて、通りを雪が積もったように真っ白に染めるんです。ナターシャちゃんは、そこを駆けるのが大好きで――」
「瞬」
異世界の氷河が 僅かに首を横に振ったのは、彼の瞬のためであり、異世界の自分たちのためでもあったろう。
これ以上 この世界にいて、これ以上 彼等のナターシャのことを語ると、傷付くのは自分たちだけではなくなると、彼は その事態を案じたのだ。
異世界の瞬が、彼の氷河の懸念を汲み取り、この世界のナターシャのパパとマーマのために微笑む。

「ここのイチョウ並木も綺麗。氷河と歩いて帰ります。ありがとう。お幸せに」
『できれば、いつまでも』
異世界の瞬が言葉にしなかった その言葉が 悲しくて――彼等が必死に笑みを浮かべているのが、この世界のナターシャと彼等のナターシャのためだということがわかるから――瞬もまた 涙をこらえて、その言葉を受け取ったのである。
「はい……あなた方も、お元気で……」

あなた方が ナターシャを失ったのは いつなのか。
いつまでなら、僕たちはナターシャと一緒にいられるのか。
尋ねたいことは いくらでもあったが、瞬には訊くことはできなかった。
異世界の瞬が言っていた通り、この先、この世界に 彼等の世界と同じ出来事が起きるとは限らない。
彼等と同じように、自分たちの許にもナターシャとの別れの時がやってくるとは限らない。
世界の存亡がかかった戦いに、自分たちが勝てるとも限らないのだ。

彼等の生きている世界と この世界は、異なる時が流れている 異なる世界なのである。
世界が違うのに――同じ世界などないのに――“氷河”と“瞬”が聖闘士でない世界もあるのかもしれないのに、“氷河”と“瞬”が出会っていない世界もあるかもしれないのに、そんなことを聞いてどうなるというのか。
人は誰も、自分が生まれた世界で、自分に与えられた時を生きていくしかない。
自分が生まれた世界で 幸福になるために 必死に生きていくしかないのだ。

金色のイチョウの葉は、陽光を受けて きらきらと輝きながら 舞い散り続けている。
どこまでも まっすぐに続いているようなイチョウ並木を、二人は静かに歩いていく。
彼等の世界に帰っていく二人を、氷河と瞬は 無言で見送った。






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