この古典芸能の演目を、チンピラは俺に背を向けて演じていたから、当然 俺はチンピラの腕を奴の後方から掴みあげることになった。 原始生物のチンピラは、 「何だとっ」 と怒鳴り声をあげ、振り返って 俺が何者なのかを確かめようとした――らしい。 だが、俺に宙で掴まれた手がそこから1ミリたりとも動かないので――動かせないので――残念ながら後ろを振り向くことができなかった。 無理に顔だけ動かそうとすると 腕の骨が外れる位置で、俺はチンピラの腕を固定させていたから。 「何だよっ!」 チンピラが、頭のてっぺんから抜けていくような悲鳴じみた声を響かせる。 答える義理もないので、俺は何も答えなかった。 そもそも、『何だと!』や『何だよ!』は 質問なのか? それが俺への質問だったとしても、何を訊かれたのか、俺には よくわからなかった。 だから、俺には答えようがない。 俺が掴みあげたチンピラの腕と手は、空中で固定され1ミリも動かない。 俺の手から逃げようとして 手足をじたばたさせて もがくたび、奴の身体は宙に浮く。 俺に手を離されたら どういうことになるのか わかっているのか いないのか、チンピラ氏は やたらと『放せっ』を繰り返した。 腕を掴まれて、足を前後に ばたつかせているのに、俺を蹴ることができない状況に、チンピラ氏は合点がいかないらしい。 手を宙に固定されて がむしゃらに暴れる姿は、ウサギを捕まえるための くくり罠に掛かってしまった間抜けな猿のようだ。 懸命に足を ばたつかせても、俺に蹴りを入れられないのは、脚が短いからなんじゃないか? 後方に蹴りを入れる方法も知らないらしいチンピラ氏は、5分ほど じたばたしたあと、ついに電池切れになったのか、やっと大人しくなった。 俺が チンピラ氏を掴みあげていた手を放すと、そのまま どたっと派手な音を立てて 駅前広場の石畳に落下。 チンピラ氏は、尻餅の手本のような尻餅をついた。 そして、いかにも 恐る恐るといった体で 後ろを振り返り、初めて俺の顔を見る。 そこにどういう人間がいると思っていたのかは知らないが、チンピラ氏は俺の姿を見て、一瞬 意外そうな表情を浮かべた。 金髪碧眼の俺の姿が想定外だったのかもしれない。 当然、俺も 初めてチンピラ氏の顔を見ることになったんだが、俺の方は チンピラ氏の顔に いかなる意外性を感じることもできなかった。 予想通り、コメディアンの顔だ。 ――と言ったら、プロのコメディアンに失礼か。 天性のコメディアンは、俺が今 、死ぬほど機嫌が悪いこと、原始生物の1匹2匹は殺しても構わないと思っていることを、敏感に察知したらしい。 原始生物にして天性のコメディアンでもあるチンピラ氏は、俺への反撃を試みようとはしなかった。 俺は原始生物のために表情を作る気にもなれず、怒りの表情も浮かべていなかったのに。 ともあれ、尾骶骨をしたたか打って 痛みも走るはずなのに、チンピラ氏は自力で その場に立ち上がり、そのまま『覚えてろよ!』も言わずに、驚くべき素早さで 駅前の人混みの中に逃げていった。 おかげで俺は、奴に『おととい来やがれ』も言ってやれなかったんだ。 俺自身は、様式美を守るために、それくらいは言ってやろうと思っていたんだがな。 最後まで不愉快で失礼。 TPOをわきまえていないチンピラだ。 まあ、『覚えてろよ!』は、そもそも何を覚えていればいいのかを指示してくれないと困るセリフだから、そんなセリフを言われていたら、俺も対処に困っていただろうが。 目的格を省略した命令や依頼ほど、不親切な行為はない。 ということは、目的格省略という不親切を避けるために、チンピラ氏は あえて 捨て台詞なしの逃亡を決行したんだろうか。 それが、チンピラ氏のチンピラ氏によるチンピラ氏なりの親切心だというのなら、まあ、ぎりぎり許容範囲というところ。 いずれにしても、もう二度と会うことはないだろう相手だ。 チンピラの件は忘れて、俺は 俺の為すべきことをすることにしよう。 ――と、気を取り直したまではよかったが、伝統芸能の舞台に上がることを余儀なくされたせいで、俺は、自分が何をするために ここにいるのかを、一瞬 思い出せなかったんだ。 数秒かけて、考えたくないことを考えないために 自分が城戸邸を出てきたこと、そして、大陸に渡るチケットを手に入れるために 自分が ここにいることを、俺は思い出した。 その目的を果たすために、どちらに向かえばいいのか。 その判断をするために、改めて辺りを見まわした俺に、声を掛けてきた人間が一人。 「あの……」 俺は、数日前に 数年振りにシベリアから日本に来たばかりで、当然のことながら――城戸邸にいる者以外に この国に知り合いはいない。 俺に声をかけてきたのは、もちろん俺が知らない人間だ。 眉をひそめた俺に、その見知らぬ人間が、 「ありがとうございます」 と言って、腰を折ってくる。 それで、俺は、それが さっきのチンピラに絡まれていた女の子だとわかったんだ。 てっきり、さっきのチンピラより先に、この場から逃げ出したんだとばかり思っていたのに。 不機嫌な俺が恐くないんだろうか。 逃げていなかったとしても――俺は今、途轍もなく凶悪な顔をしているはずだから、普通の感性を持っている人間は 好んで近付こうとはしない――と思うんだが。 もしかしたら、彼女は、礼を言わずに逃げる方が 恐いことになると考えたのかもしれない。 不機嫌のあまり 凶悪な顔をしている(はずの)俺に、その女の子は、 「助けていただいた お礼をしたいのですが……」 と、間の抜けたことを言ってきた。 あまりに間が抜けすぎていて――俺は、俺の顔の凶悪さに自信を失いそうになったんだ。 こんな間の抜けた女に“お礼”なんかされたら、俺の不機嫌は 更にひどくなって、ここに雪を降らすくらいのことは しかねない。 そんなことにならないように、俺は、 「いらん」 とだけ言って、その女をやり過ごそうとしたんだ。 そうしたら、その女は声を ひそめて、俺にだけ聞こえるように、 「ギャラクシアン・ウォーズに参加予定の方ですよね?」 と囁いてきやがった。 グラード財団は、まさか、ギャラクシアン・ウォーズに出場する(させられる)聖闘士の顔写真を公開しているのか? そんなことをして、私闘を禁じている聖域が どう出るかを考えられる人間は、城戸沙織の周辺にはいないのか? 誰に対して腹を立てればいいのか わからず、その場に棒立ちになった俺に、女が重ねて囁いてくる。 「お茶に付き合ってくださらないと、ここで歓声をあげます。あなた、とても お綺麗だし、きっとサイン責め、握手責めに会いますよ」 「……」 俺が助けた相手は、へたなチンピラより質の悪い脅迫者だった。 そして、自分でも信じられないことだが、俺は その脅迫に屈するしかなかったんだ。 |