氷河の店に来れば、娘語りが始まり、それは いつのまにか 娘自慢になることは わかっている。 紫龍と星矢が、それでも氷河の店にやってくるのは、要するに、氷河の娘自慢が面白くてならないからだった。 娘自慢の内容も さることながら、あの氷河が娘自慢などというものをしているという事態が。 彼が白鳥座の青銅聖闘士だった頃、氷河の許に こんな時が訪れることがあると、誰に想像できただろう。 星矢たちにとって、それは、それこそ奇跡を目の当たりにしているようなものだったのである。 開店前で、客はいない。 瞬は 家でナターシャと お留守番で、恐い お目付け役もいない。 カッコいいパパの振りをして見せなければならないナターシャもいない。 三つの条件が重なって、氷河は ほとんど彼の素といっていい状態だった。 「寂しいから、嘘つきになる――か」 「俺たちが正直者なのは、仲間がいたから――ってことかぁ」 「正直すぎるのも危険だがな。おまえや一輝は嘘をつけないせいで、辰巳の目の敵にされていただろう。おかげで、穏健な俺や瞬は、暴走する おまえたちのストッパー役が責務のようになっていた」 「おまえと瞬の 切れた時がものすごいのは、その反動なのかなぁ……」 言う人間が星矢でなかったら、完全に皮肉返しである。 星矢だから、他意なく(星矢にとっての)事実を口にしているだけなのだと思うことができるのだ。 紫龍は、星矢の、ある意味 お得な性格に感心した。 「一輝やおまえは“嘘をつけない”のではなく、“余計なことを喋ってしまう”だろう」 「言ってくれるじゃん、氷河。そりゃ、おまえは 確かに 余計なことは喋らなかったけど、考えてることが もろに顔に出て、やっぱり 辰巳の目の敵にされてただろ」 「そして、瞬に尻拭いをさせる。すると、一輝が機嫌を悪くして 星矢に当たり始め、俺が調停に駆り出される。災いの連鎖だ」 星矢と違って、紫龍の非難や皮肉は、正しく非難もしくは皮肉として受けとめられる。 氷河が むっとしたように 唇の端を引きつらせるのを認めて、紫龍は すぐさま中和剤を投入した。 「まあ、それはそれとして。瞬の影響が大きいんだろうが、ナターシャは心根が優しいな。しかも、賢い。ナターシャには ぜひ、『酸っぱいブドウ』の感想を聞きかせてほしいものだ。ナターシャなら、さぞかし斬新な感想を聞かせてくれることだろう」 瞬とナターシャの名前が出た途端に、氷河が無表情に戻る(= 機嫌を直す)。 ナターシャを引き取ったこと、瞬をナターシャのマーマにしたことを、自分の人生最大の手柄と考えている節が、氷河にはあった。 「ナターシャが優しい心を持っているのは、瞬の影響だろうな。俺は、本を読んで泣いたことなどないし」 そう言いながら、氷河が紫龍の前にジントニックの入ったタンブラーを置く。 オーダーしていないのに 出てきたのは、これが氷河のおごりだから。 なぜ 氷河がそんなサービスをしてくれるのかといえば、彼がナターシャを褒められて機嫌をよくしたから。 わかりやすすぎる旧友に、紫龍は 胸中密かに苦笑し、安堵もしたのだが、氷河の その発言に、今度は 星矢が引っ掛かってしまったようだった。 「えーっ !? おまえ、『ごんぎつね』や『泣いた赤鬼』でも 泣いたことないのかよ?」 「『ごんぎつね』は、きつねの軽率が病気の老母を死なせた話だろう。きつねの死は当然の報い。泣くような話じゃない」 「『泣いた赤鬼』は? あれは 俺でも泣いたぞ」 「あれは、青鬼という友がいながら その存在の有難さに気付かずにいた赤鬼の愚かさに、いらいらする」 「……」 自分が感動した物語を 冷めた口調で こき下ろされることほど、不快なことはない。 星矢は 一瞬 口をへの字に曲げ、そして 少し意地になってしまった――ようだった。 「なら、『幸福の王子』はどうだ? 我が身を犠牲にして、貧しい人たちを救おうとした王子サマ。瞬に通じるところがあるだろ」 「あんな馬鹿王子を 瞬と一緒にするな。瞬は俺に生きることを示唆してくれたが、あの話の王子は、独りよがりの善意で ツバメを死なせた。王子が善人扱いされているのは納得できん」 「そんなら、『人魚姫』とか」 「あれは、馬鹿な男に惚れた女が 自己犠牲に酔って 恋を失う話だろう。馬鹿と馬鹿の恋。うんざりする。ナターシャには絶対に読ませられないな」 「『マッチ売りの少女』は? あれは、ナターシャみたいに小さな女の子が、何にも悪いことしてないのに死んじまう話だぞ。今のおまえには 涙なしには読めない話だろ?」 「幼い少女が 真冬にマッチを売ってまわらなければならない社会が問題だ。大人は、泣いている暇があったら、社会の変革に努めるべきだ」 「んじゃ、マザコンのおまえに決定打! 『母を訪ねて三千里』はどうだ! 遠い外国に出稼ぎに出たマーマを探し求めるマルコ少年!」 「母親が出稼ぎに出なければならないほど甲斐性なしの父親が許せん」 「そこに引っ掛かるのかよ!」 そこで“泣けるお話”の在庫が尽きた星矢は、不満の色を帯びた大声をあげて、氷河を睨みつけることになってしまったのである。 もちろん、人の感じ方は 人それぞれ。 氷河が ごんぎつねの死を当然の報いと思おうが、赤鬼の不見識に苛立とうが、それは氷河の勝手である。 氷河の感想は、決して非難されるようなものではない。 だが、それでも 星矢には、氷河の根性の曲がった感想文は、唯々として受け入れることのできない代物だったのだ。 「おまえ、いくら何でも 捻くれすぎだろ。物事には、もっと虚心に 素直な心で感動して、泣くくらいのことをしろよ。パパが そんな天邪鬼でいたら、ナターシャにだって いい影響を与えないぞ」 ナターシャの名を出せば、氷河も自分の臍曲がりを反省するだろう。 そう考えて――期待して――星矢は氷河の態度を非難したのだが、氷河が物事に素直に感動して泣くことをしないのには、彼なりの事情があったのだ。 つまり、 「瞬が流す涙は美しいが、俺が泣くと、なぜか人の笑いを誘うんだ」 という事情が。 「へっ」 まるで しゃっくりのような奇声をあげたきり、星矢が黙り込んでしまったのは、氷河の これまでの数々の落涙シーンの記憶が 鮮明な画像データとして、彼の脳裏に蘇ってきてしまったからだった。 アテナの聖闘士たちは、一般の子供とは あまりにも趣の異なる思春期と青春期を過ごしてきた。 彼等は、その時期を、大人になることの不安を思い煩って過ごしてなど いられなかった――彼等に、そんな優雅な思春期や青春期はなかった。 だが、であればこそ、当時の出会いや経験は途轍もないインパクトを伴って 彼等の記憶の中に刻み込まれたのである。 「あー……。うん、それはまあ、確かに、ちょっと、かなり……」 「おまえが泣いているところを見たら、ナターシャもびっくりするだろうな。世界一カッコいいと信じてるパパが、だらだらと袋田の滝も顔負けの滝涙――」 「駄目駄目駄目。ありゃあ、絶対に 小さな女の子に見せていい代物じゃない。俺たちでも、ショックで心臓が止まりかけたくらいの代物なんだ。ナターシャには トラウマになるぞ!」 「貴様等は、俺を何だと思っているんだ……!」 自分が言い出したことだというのに、星矢と紫龍の言い草に、氷河は かなり気分を害したらしい。 険しい顔つきになった氷河は、反論なのか 弁明なのか 事実報告なのかの判断が難しいことを、不機嫌 この上ない声で口にした。 「俺は、ここ10年ほど泣いたことがない」 『だから、おまえたちの発言は的外れだ』と言いたいのか、『だから、ナターシャは安全だ』と言いたいのか。 氷河の真意は わからなかったが、それは 星矢の心を安んじさせる発言だった。 「なら、いいけどさ。おまえでなくても、親が子供の前で 派手に泣くのって よくないよな。子供も戸惑うだろうし、不安にもなるだろうから。瞬なら、泣いても様になるし、ナターシャの心臓もショックで止まったりはしないだろうけど、おまえはさー」 星矢は、完全に氷河を危険物扱いである。 それで一層 険悪な目付きになった氷河を なだめるように、紫龍は 取ってつけたような笑みを その顔に貼りつけた。 「だが、おまえの その愛想なしの無表情も、ナターシャのように小さな女の子には 情操教育的に よろしくないのではないか? 泣き顔は論外だが、笑顔は たくさん見せてやった方がいい」 「それは瞬の担当だ。俺は、クールなパパを目指している」 「それ、どう考えても、実現不可能だろ。無駄な努力だ。目指すだけなら、おまえの勝手だけど」 星矢が――行く手に どんな障害が立ちはだかっても 決して諦めず、常に希望と共にあることを身上としている(はずの)アテナの聖闘士が―― 一瞬の躊躇もなく、氷河の目標を『実現不可能』、その努力を『無駄な努力』と断じる。 星矢の場合、それが揶揄でも嘲りでも非難でも忠告でもなく 無邪気な感想だから、処置に困るのだった。 困るのは もちろん、氷河ではなく紫龍である。 「それは確かに、どう考えても 無駄な努力だが、それを明言するのは 問題だぞ。希望の闘士という、俺たちの立場上」 眉を吊り上げた氷河と、他意も悪意も邪気もない星矢の間に、慌てて紫龍が仲裁に入る。 が、残念ながら、紫龍の行為は、仲裁にも調停にもなっていなかった。 結局 その日、紫龍は、オーダーした記憶のないジントニックの代金を支払うことになってしまったのである。 それも、通常料金の倍の額を。 |